紀元1世紀のクリスチャンが周りに衝撃を与えたのは、彼らのお金の使い方が並外れた寛容さを示したことに、第一の理由があります。次に、彼らの語るイエスキリストの話に他の共同体の人々が耳を傾けたのは、語る人たちの生活に裏付けられた言葉だったからです。それゆえに、最初は迫害されていたキリストの共同体が、最後は帝国を席捲するリーダシップを発揮したのです。
僕らはどうでしょう。僕らのお金の使い方は、僕らの本当に神とするものがどこにあるかを示します。もし自分の救いがイエスにあると理解するなら、「過激な、思い切ったやり方で献げたい。それによって人々の人生を変えたい。どうせお金は自分のものではないのだから」と思うでしょう。しかし、もしあなたの救いが他にものにあるなら、間違いなくあなたはお金にしがみつくし、そのお金は、あなたが神とするものに向かいます。
まずイエスを見ることです。イエスを見るとは、僕の場合、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という十字架上のイエスの言葉を黙想し、打たれたイエスは僕の代わりだったと知ることです。イエスは父の愛を失い、僕は父の愛を得ました。イエスが捨てられ、僕は今、父の御腕に抱いて頂いています。そしてその父の愛が、僕らを寛大にしてくれるのです。聖霊によって、この神の現実を求めてほしいと思います。