イエスへの信仰
ルカ7:1-10,36-50

宗教指導者たちは「この百人隊長は助けるにふさわしい良い人だ」と言ったが、それは彼らの行為義認の信仰をあらわしていた。一方で百人隊長は、自分の大切なしもべが死にかけて初めてイエスを呼んだが、その時「自分はあなたと同じ部屋にいることもふさわしくない者だが、イエスよ来てください」と。その言葉を聞いてイエスは「それこそが信仰」と言われ、その時しもべは癒された。

僕らは、日ごろなかなかイエスを呼ぶことはしないし、「人生の意味」「神はいるのか」などの大きな疑問について考えようとしない。その理由は、それが難しく怖い質問だからだ。が、忙しさもその理由の一つだ。CSルイスの「悪魔の手紙」には、クライエントが「神がいるかもしれない」などの疑問を持ち始め時にはその人を忙しくさせよ、そうすればそんな疑問は飛んでいってしまうからという、悪魔の部下に対する指導要綱がある。

パリサイ人シモンは、イエス・シンパなりたいと思って宴席を催したが、彼はまだ完全な美しいものに出会っておらず、「奴隷」のままだった。これが、人前で髪を下ろし、香水のツボを割り、自分の髪でイエスの足をぬぐった女性との違いだった。この女性はイエスの愛と赦しを知り、あらゆる恐れと奴隷状態から解放されていたのだ。この信仰を持つには、ただイエスの美しさに驚嘆すること。その時あなたもすべての恐れから解放されるのである。