放蕩息子は父を傷つけ、父の財産を湯水のように使い果たしました。が、父はその悔い改めた弟息子を受け入れました。ところで兄息子は父の何を求めていたのでしょうか。実は兄息子も弟と同じく、父自身を求めていたわけではなく、父の財産が目当てでした。だからこそ、それを無駄遣いした弟が赦せず、父の心を無視して、弟を受け入れた父親のことをなじったわけです。兄の問題は自己義認でした。「俺はちゃんとやっている、だから父親も俺の言うことを聞くべきだ」と。兄も弟も、結局は自分たちの欲求を満たすために父を利用していたにすぎませんでした。父を喜ばせるために父にお仕えするという気持ちは、両方とも持っていなかったわけです。32節でこのお話は突然終了しますが、本来兄はここでどういう行動をとるべきだったのでしょう。本来兄は弟を捜しに行くべきだったのではないでしょうか。それが父を一番喜ばせることだからです。そして、実際それをなされたのがイエスキリストでした。主は大いなる犠牲を払って、弟さがしの旅に出て来てくださいました。ですから私たちも、先に救われた者として、今もさまよう弟をさがしに出て行こうじゃありませんか。父は弟たちの帰りを待って、今日も戸口に立っておられるのですから。
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