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信頼とそれ以外
マルコ12:35-44

イエスは懐疑論者たちに立ち向かいます。が、その最後になぜか、貧しいやもめがレプタ銅貨2枚を献げたお話が載っています。どうしてあんなギスギスした議論の最後に、この逸話が載っているのか。ずっと分からずに来ました。が、これが分からないと、イエスが本当に言おうとしておられたことが、本当の意味では分からないということが分かってきました。このやもめやイエスご自身だったのです。

神はご自分と貧しい人を同一視するということを、旧約以来繰り返し語って来られました。が、これは決して感情的なことではない。神は新約に至って、本当に貧しい人とご自分を同一視されたのです。イエスは飼い葉おけの中でお生まれになり、羊も献げられずハトを献げる家に育ちました。「狐には穴があり、鳥には巣があるのに、人の子には頭を置く場所もない」と。ホームレスだった主は、十字架の上で全裸にされました。イエスは完全な無一文になられたのです。

イエスは言われます。「あなたのために地上に来てコントロールを失った神を、今度はあなたがコントロールを失うことによって信頼してほしい」と。こんなことを言う宗教はほかにありません。でもイエスがそうされたのを見るなら、イエスがご自分のいのちを箱に入れられたのを見るなら、イエスがご自分のコントルールを失われたのを見るなら、それはあなたの心を溶かすのではないでしょうか。

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弟子となる、弟子とされる
(寺村幸雄神学生)
マルコ1:14-20

イエスはすでに漁師である弟子たちに、「あなたを人間をとる漁師にしてあげよう」と言われた。とるものがかわるだけで、今の生活の延長線上に答がある。かつ、決して大工や教師にしようなどと突飛なことは言われない。 これに応答して人間をとる漁師になるのはあくまで私達。イエスが勝手に私たちをそんな漁師にされるわけではない。召しと応答。これはエレベーターの様に受けたら一気に上まで行くものではなく、エスカレーターの様に召しと応答をフロアーごとに繰り返し、最後にトップフロアーにたどり着くのだ。 更にこれは直接献身にこだわるものではなく、主は少しずつ献身を励まし、必要な勇気を与えて下さる。「あなたを人間をとる漁師にしてあげよう」と今日あなたに語られる主は、真実なお方なのである。

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向かい風の中で主は
マルコ6:45-52

人生に向かい風はつきものです。が、その時、主が何をされているのかを僕らが想像することはほとんどありません。主はあなたのために祈っておられるのです。それでも解決できず、舟が進まないなら、イエスはその渦中にまで下りて来て下さいます。そして、「しっかりしなさい、わたしだ。恐れることはない」と声をかけてくださるのです。 それが「想像できない」とはどういうことか。それは、この直前に起こった5000人の給食の奇跡の証拠品、つまりかご一杯のパンが、まだこの舟に中に残っていたにもかかわらず、恵み深いイエスに思いが至らないということです。そんな僕らのために祈るイエス、渦中に来てくださるイエス、そして舟にまで乗って下さるイエスにです。僕らの心は、日ごろ、徹底的にふさがれていることを覚えたいと思います。 僕らは日常の向かい風の中で、まず「しっかりしなさい、わたしだ。」という主の声を、聞きたいと思ます。そしてこれを何度聞けるかです。もし一度でも聞けるなら、すぐに言いましょう。「私とともに、この向かい風の中に、とどまって下さい」と。主はあなたに、その人生の向かい風に立ち向かう術を必ず教えてくださいます。

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クリスチャンとしての成熟・福音篇
マルコ1:9-11

僕たちは頑張ることを求められる世界にいます。その結果、頑張った末できなかった時には自信を失い、できた時には傲慢になります。それは決して「当然のこと」ではなく、僕たちが福音に生きていないことから来る残念な結果なのです。 「あなたはわたしの愛する子」という、天の父がひとり子イエスに掛けられたこの珠玉の言葉は、そのまま私たちへの言葉でもあります。でも、自分の働き、功績に頼るなら、この愛の言葉も僕たちの人生には響かなくなってしまいます。 悪いことを悔い改めるのは、ある意味簡単です。でも、いま必要なのは、自分のやっている「よいこと」が偶像化し、あたかも自分を自分たらしめている最も大切なもの!となってしまっている状況に気づき、これを悔い改めることなのです。 そして落ち込むことの多い僕たちが元気になる秘訣は、こんな罪深い僕らを愛し、僕たちに祝福の計画を用意している神を知ること。そして、その神の力は僕たちの弱さを通して完全に発揮されるという聖書の奥義を知ることなのです。

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キリストを乗せて歩む
マルコ11:1-11、ゼカリヤ9:9-10

主の祈りは、覚えにくい祈りです。いちばんよく聞いているはずなのにどうしてかと思います。覚えている僕らも、あまり中身を考えずに、言葉だけ唱えているところがあります。それはこの祈りが、僕らの心から出て来る願望を唱える祈りではないからです。もともと僕らの心の自然な流れに逆らった祈りなんです。 主の祈りは、もとはイエスが天のお父様にささげた祈りです。それを僕らに教えてくださったもの。だから本来この祈りには、僕らの声ではなく、イエスの声が響いているのです。子ろばの背中に乗ったイエスが、僕らに代わってこれを捧げて下さっている。僕らはそれをなぞりながら、この祈りを祈り始めるんです。 僕らはろばです。何のとりえもない僕たちに、イエスが目を留め、そのために使いを送ってくださった。そしてその人に祈られ、伝えられ、イエスと巡り合うことができた。この一方的な恵みに応答するとき、僕たちも神の救いの物語のわき役としていただけるのです。 弟子たちにこの祈りを教えられたイエスは、エルサレムに向かわれます。十字架に向かう旅です。でもそこで終わらない。復活があって今もその旅を続けておられるのです。そのイエスの肉声を聞くとき、イエスの声が僕らの声になり、イエスの歩みが僕らの歩みとなる、これがクリスチャンの歩みなんじゃないでしょうか。

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すべての人が」
マルコ6:14-30

ヘロデ王は、神からの預言者、バプテスマのヨハネを殺害します。が、その動機は、ただ酒の席での失言の埋め合わせでした。踊りを踊った少女に、「褒美として何でも与える」と公言し、それに対して、いつもヨハネに苦言を呈されてきたへロディアが、「ヨハネの首を」と娘に言わせたのです。へロディアはヘロデと道ならぬ関係にあったので、それを指摘するヨハネがうっとうしかったわけです。ヘロデは客の手前引くに引けなくなり、ヨハネの首をはねます。そんなどうしようもない罪を犯したヘロデでしたが、彼はヨハネのことばを当惑しながらも、喜んで耳を傾けていたと聖書に書かれています。それは「悔い改めて福音を信ぜよ。ならばどん罪でも赦される」という福音の核心にヘロデはすでに肉薄していたということ。そして、この「どんな罪でも」には、このヨハネ殺害という最低最悪の罪も含まれていたのです。 その後のヘロデのことは聖書には書かれていません。が、「アンティオキアには…領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師などがいた」と聖書にあります。領主ヘロデとはこのヘロデのこと。サウロとは後のパウロです。パウロにつき従う伝道者が、この血塗られたヘロデの家系から生み出され、「どんな罪でも赦される」「だから悔い改めよ」と共に叫んでいたということ。神の紡ぎ出す物語は何と驚きに満ちた物語でしょうか。神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことができるお方。ですから、自分だけは関係ないと思ってはいけません。すべて人が、この驚きのストーリに招かれているからです。石ころ人生、がれき人生が、ダイヤモンド人生に変えられる。それはただ、主イエスの十字架の血潮によること。そしてその始まりが、クリスマスなのです。

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いのりはガラスの天井を突き破る
マルコ10:14-16

「子どもたちを私のところに連れてきなさい。子どものように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに入ることはできません」とイエスは言われました。子どものようになるとはどういうことなんでしょう。皆さんの「子ども」のイメージってどんなものですか。彼らは誰かに頼って生きていますよね。かわいいですね。お父さんを信頼しています。時に生意気。でも親がいないとダメ。ある意味弱肉強食。でも正義感が強い。一方で自己中心・・・要するにはちゃめちゃです。僕らは、もっとはちゃめはでいい!ということなのではないでしょうか。きれいなことを並べるのではなく、本当の心をぶつける。心配事も、悲しみも、失望も、怒りもそのまま持っていく、そんなはちゃめちゃな祈りを求めておられるのです。祈りは霊的鍛錬の場ではありません。ただお父さんの胸に飛び込むことです。 そして僕らは2階建ての1階に住んでいて、神は2階の存在と思ってしまっているところはないでしょうか。だから祈らないのです。愛や奇跡は祈っても生活のことは祈らない。それは、神は2階にいて僕らの小さなことなんてケアしてくれないと思ってしまっているからです。が、それは単なる不信仰です。神はすべてを支配される良いお方という信仰がなくなってしまっている。それは人生にはいいことばかりが起こるわけじゃないという現実があるからですが、このガラスの天井を突き破る唯一の方法が祈りなんです。「私の名によって求めるものは、父がそれを与えてくださいます」と、イエスは何度も私たちに約束しておられます。求めて、それをゆだねる。Pray and surrender just like a child! 整理もつかないはちゃめちゃな祈りを、聖霊は喜んでとりなし、天の父なる神様は、そんなあなたの頭に手を置いて、目を細めてなぜてくださいます。

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お金との向き合い方
マルコ10:17-31

今の日本の問題は、お金持ちとその助けを必要とする人たちの間に深い溝ができてしまったことにあり、昨今コロナ禍により、そういった貧富の差はますます拡大しています。かつ今の世にはそれを是正するシステムが存在しないのです。キリスト教会は、3世紀の「キュプリアヌスの疫病」の時から、ローマ帝国が隔離の名のもとに遺棄してきた病人を看護し、丁重に埋葬することで感染率を押し下げるなど、どの時代にあっても社会のシステムが機能しない隙間を埋めることで、異教徒たちの評価を勝ち取って来ました。またマザーテレサの働きが文化や宗教を超えてあそこまで評価されたのも、貧しい人と豊かな人の出会いの場を提供できたからでした。では今、日本の教会に期待されていることは何か。それは、豊かな人とその助けを必要とする人を結び付けるコミュニティーを提供すること。そこにおいては、イエスの思いに沿ったお金の使い方をすることで、豊かな人がこれまで受けて来たお金の呪縛から解放され、「受けるより与える方が幸い」の「幸い」を味わうことができるのです。そしてその時あなたは、お金、人の評価、成功した人生など諸々の「偶像」から解放され、本来のあなたに、神の子のアイデンティティーに、生きることができるようになるのです。

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向かい風の中で主は
マルコの福音書6:45-52