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礼拝メッセージ

第三の道としての福音
ルカ18:9-14

僕たちは、礼拝出席も、「宗教的」な正しい行いの一部として、行っている場合があります。「宗教的」な理由で礼拝に出席するとは、自分が出席しないなら、神やほかの人がどう反応するかということを恐れて出席する場合です。あるいは、出席することでなにか神から受け取るものがあるかと期待して出席する・・・。でも、そこには本当のキリスト教を表すものは何もありません。それとは対照的に、十字架によってもたらされたイエスキリストの新しい現実の自由の中で、礼拝に主席する。この新しい枠組みに、パウロは私たちを招いているのです。 ペテロは、割礼派の圧力に屈して異邦人と一緒に食事をしなくなったことがあり、そのことをパウロに糾弾されました(ガラテヤ2:11-13)。イエスは、パリサイ人が「罪びと」と断じた取税人や遊女たちと食事をすることで、当時のユダヤ人が持っていた「宗教」の壁を取り崩しました。しかし、ペテロは「宗教」に屈し、ふたたび自分と異邦人の間に線を引いたのです。このことをパウロはものすごいテンションで攻撃しました。それは、一旦そのことを許したら、イエスキリストの福音が骨抜きにされてしまうからでした。マルチン・ルターは、この時、その後の福音の全運命は、パウロ一人の肩にかかっていたと言っています。僕たちはそのテンションをもって、宗教という奴隷のくびきに対抗しているでしょうか。 また我々は、この事実に気づいてもすぐさま宗教や自己義認の世界に引き戻される弱さを持っています。このサタンの策略を暴き出す最高の方法は、「宗教化」した自分に気づいた時、それをフフっと笑うことだと、デイビット・ギルという学者はユーモラスな提案しています。この「微笑み」こそが、私たちの教会を刷新し、宗教を排し、キリストにあるいのちを保ち続ける鍵なのではないでしょうか。