マタイ2章には、「ユダヤ人の王の誕生」の知らせを受けて動揺するヘロデ王の姿が描かれています。その動揺するヘロデを見て一緒に動揺したのが、側近の宗教学者と高官たち、そしてエルサレムの住民でした。ヘロデは自分の王位を狙う妻や息子たちをすでに何人も殺害していたからです。ああまた厄介な話が来た…と、不安のさ中にあったエルサレム。方やその対比として「ベツレヘムの村」が登場します。そこはイエスの到来を、静かに、礼拝を持って迎える世界。博士たちはこちらに向かいました。同じ事件の中にある真反対の2つの事象、それがエルサレムとベツレヘムでした。さて私たちはどちらでしょう。今コロナの異変にあって、それでも礼拝を守ることができることは幸いです。エルサレムに在っても心はベツレヘム。異変の中にあっても、主の手に安らぐ者でありたいと思います。 ところで、東方の博士たちは、黄金、乳香、没薬をイエスに献上し、そのあと、別の道から自分の国に帰ったと聖書にあります。占星術の専門家として、これまではこれらを祭儀の道具として使って来たわけですが、イエスに出会い、彼らはその悪霊と偶像の世界と決別して、帰って行きました。別の道を通ること自体が、当時は大変なリスクでした。では彼らはなぜ、そんな危ない「別の道」を選んだのか。それは詩篇113:5-6の「主は御座を高く置き、なお低く下って、天と地をご覧になる」(新共同訳)という、救い主の降誕の預言を、彼らは知っていたのです。静かに眠る幼子に、「低く下る」神の愛と、恵みと、預言の成就を見、彼らはこの神にのみ仕える道に方向転換したのです。さて、このダイナミックな神の愛に出会った私たちは、何を変えていただき、またどうお応えすべきでしょうか。