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礼拝メッセージ

わたしの時はまだ来ていない
ヨハネ7:1-13

イエスキリストはご自分の「時」をしっかり持っておられました。それは「なすべきこと」がわかっていたこととも言えます。十字架にかかり、死んで三日目に復活し、天に昇ること、これがイエスの人生目的であり、33年のご生涯はここ一点に集中されていました。ユダヤ人は、すべてに「時」があると考えます。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある・・・」(伝道3:1-8)と。神がそれらすべてを決めておられ、その「時」にふさわしいことをしないなら、生き生きとは生きられないと考えるのです。さて私たちは、自分の「時」を得て人生を生きているでしょうか。「私の時はまだ来ていない」「私の時は今だ」というメリハリをもって生きたいものです。それは主からのビジョンを頂くときに可能となります。 ところで、イエスの弟たちは、イエスのことを信じていませんでした。マリアをはじめ兄弟たちが、狂ったのではないかと心配してイエスを呼びに来たこともありました。このことは、家族伝道の難しさを伝えています。かつ、それがうまくいかないときの私たちの慰めでもあります。イエスは性質にも、言葉にも、行いにも欠けたところは一切ありませんでしたが、そのイエスにしてこのありさまだったからです。しかしイエスの十字架と復活と昇天後、ヤコブをはじめとするイエスの家族は、初代教会の柱としての、重要な働き手となりました。「時」は不可能を可能にします。それは主のみ業であり、栄光は主のもの。私たちはその「時」を待ち望みつつ、家族伝道にもいそしみたいと思います。そして自らの「時」を知り、主の栄光のために働きたいと思います。