姦淫の場で捕まえられた女がイエスの前に引き出された時、パリサイ人、律法学者たちは、「あなたが処罰の方法を決めなさい」と迫りましたが、イエスは彼らに背を向け、地面に何やら書いておられたと聖書に記されています。要は彼らを無視したということ。この後にも、イエスが何かを問われて「返事をされない」という場面は出てきますが、全て捕えられさばかれる場面です。 僕らは、祈っても神に答えられないと文句を言ったり、愛が足りないと神をさばいたりすることがあります。しかしさばく者に対して神は背を向けられるということ。また、人をさばくというのは自分へのさばきを招く行為だということを覚えておきたいと思います。 「さばく権利を持つのは罪のない者だけだ」と言うイエスのことばで、周囲にいた群衆は全員帰宅します。そして最後に「わたしもあなたをさばかない」と言って、イエスは女を解放しますが、その後、十字架にかかって、こともあろうか彼女の身代わりでもあるかの如く殺されます。それを知った女は、イエスの赦しと解放の意味を初めて理解し、その後教会に加わってこの物語を伝える者になったのではないでしょうか。 ここに私たちの物語があります。あの方が自分の罪の身代わりになって死んでくださった。私たちはここに何度も何度も戻って来る必要があります。そして、「もう罪を犯さないように」と言われた言葉に突き動かされて生きるのです。神や人をさばかず、神の喜びをわが喜びとする人生、そこにこそ解放された者としての本当の生き方があるんじゃないでしょうか。
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