主の祈りは、覚えにくい祈りです。いちばんよく聞いているはずなのにどうしてかと思います。覚えている僕らも、あまり中身を考えずに、言葉だけ唱えているところがあります。それはこの祈りが、僕らの心から出て来る願望を唱える祈りではないからです。もともと僕らの心の自然な流れに逆らった祈りなんです。 主の祈りは、もとはイエスが天のお父様にささげた祈りです。それを僕らに教えてくださったもの。だから本来この祈りには、僕らの声ではなく、イエスの声が響いているのです。子ろばの背中に乗ったイエスが、僕らに代わってこれを捧げて下さっている。僕らはそれをなぞりながら、この祈りを祈り始めるんです。 僕らはろばです。何のとりえもない僕たちに、イエスが目を留め、そのために使いを送ってくださった。そしてその人に祈られ、伝えられ、イエスと巡り合うことができた。この一方的な恵みに応答するとき、僕たちも神の救いの物語のわき役としていただけるのです。 弟子たちにこの祈りを教えられたイエスは、エルサレムに向かわれます。十字架に向かう旅です。でもそこで終わらない。復活があって今もその旅を続けておられるのです。そのイエスの肉声を聞くとき、イエスの声が僕らの声になり、イエスの歩みが僕らの歩みとなる、これがクリスチャンの歩みなんじゃないでしょうか。
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