イエスはご自分を「この世のものではない」と言われました。が、これは、我々クリスチャンのことでもあります。それは、クリスチャンは未来という隣の庭に植わりながら、枝は垣根を越えて現在という空間に伸びて来て、そこで愛と信仰を結ぶ人たちだということです。さらにコロサイ1:5「あなたがたのために天に蓄えられている望み」と複数形で言われるように、それは共同体で分かち合う恵みです。希望は僕たちを結び合わせ、互いの愛を増し加えます。世から呼び出された者たち「エクレシア」をひとつにするのが、この希望なのです。 僕らは人生で不幸な出来事が起こった時、「神様がおられるのにどうして?」と思います。が、その疑問には答えられません。イエスは盲目の男性の理由について弟子に聞かれましたが、それには答えず、「神の栄光が現れるため」とだけ答えました。義人ヨブも58回「なぜですか」と問いかけたけれど答えは与えられず仕舞い。聖書はこのように、過去でなく未来に目を向けることを促します。不幸は人と人をつなぎ、人と神をつなぐのです。ヨブが癒されたのは、理由を知ったからでなく、神を見たことによってでした。 ともにおられる神、インマヌエルの神こそが僕らの生きる道なのです。僕らは何かあると、「神様働いて!」と叫びます。が、神は直接働くことより、神によって変えられた人を使って歴史を変えることを喜ばれるようです。神はあなたとともに働きたいのです。雨は続きます。でも蛇の目傘でお迎えに来てくれたお母さんを幼子が喜ぶように、神の臨在を喜んで、雨の中を進んでいこうではありませんか。あなたは今日、どこに遣わされますか?神はそこで、あなたを通して世界を変えようとしておられます。
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