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礼拝メッセージ

真のとりなし手として
創世記44:18-34

ユダは、イスラエル民族を救うために、ベニヤミンの全責任を自分が取ると、父ヤコブに宣言します。そしてベニヤミンが「銀の杯事件」で牢屋に入れられかけた時、彼は自分がその身代わりになることをヨセフに申し出ます。この自分を差し出す姿は、全人類の身代わりとなった主イエスの型でした。それゆえに、神はユダとその子孫を大いに祝福し、ダビデの家系、主イエスの家系とされたのです。 神はもともと人間という機械を、神ご自身を燃料として走るように設計されました。我々は、つい世の達成感、自己実現、人の評価、勝ち負け、出世、お金を燃料に走り出してしまいます。が、それで一回方向付けをすると、あとで軌道修正が効かないのです。でも「神燃料」なら、聖霊の照明が進むべき方向を教えてくれます。メーカー供給の純正燃料で、日々たくましく、正しい方向に、自分の人生をハンドリングして行きたいものです。 「わたしはヨセフです」のカミングアウトは兄たちにはショックでした。が、復活のイエスと出会った初代教会と等しく、彼らはそこで完全な赦しを宣告され、恐れからも解放されます。まったく別の存在に生まれ変わる、これが回心の力です。さらに、神は、我々の夢を守り、我々の自由意思を通して、いや我々の奔放な自由にもかかわらず働かれることがここから分かります。それに必要なのは、この神の摂理に対する我々の信頼・信仰です。(ローマ11:36)