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礼拝メッセージ

福音の流れをせき止めない
創世記45:16-46:7

ヨセフは幼いときは、実に嫌な少年でした。しかし、多くの苦労を経て謙遜な人柄に変えられ、その謙遜さゆえにファラオの好意を得、今度はファラオの決断によってヤコブ家の一族はエジプトに迎えられるのです。それに先立って兄たちの悔い改めがあり、ヨセフとの和解があり、ヤコブ家は祝福の発信源となって行きます。僕たちは祝福を味わい、流し出したいと願いますが、そのために必要なのが、この悔い改めと、謙遜と、和解なのです。 ヨセフは自分を売った兄たちを無条件に赦します。が、一つだけ依頼事項がありました。それは「道中、言い争わないでください」ということ。もし、道中、兄たちが「ベニヤミンだけなんで晴れ着が多いのか」と言い争ったらどうなったでしょう。また、ヤコブが、兄たちの話を聞いて、「それにしてもお前たち、よくもわしを長年だまし続けたな」と文句を言ったらどうなったでしょう。これらの言い争いは、祝福の流れをせき止めるのです。 ヤコブの発した「十分だ」(45:28)は、心に争いが無く、人との間にも争いが無いところに初めて流れる祝福と、それへの応答の言葉でした。逆に悔い改めも謙遜もなく、内と外に言い争いがあるなら、そのバグにより祝福システムは機能停止します。ヤコブはこれまでのヨセフへの偏愛がどれほど兄弟間に確執を生んだかを知って謝罪し、しかしそれをも用いて民族救済をなさる神の摂理に驚き、御名を崇めたに違いありません。アブラハム、イサク、ヤコブの祝福に与るとはどういうことかが、ここに描かれています。