昨年の東京オリンピックでは多くのゴールドメダリストの勇姿が報じられ、まさに栄光のラッシュでした。本領を発揮し人生の頂点に立った人たちの笑顔は、今も目に焼き付いています。イエスもここで「人の子が栄光を受ける時が来た」を言われましたが、それは一粒の麦として死ぬことを指していました。これがイエスの本領発揮の時であり、ゴルゴダの丘がその「ひのき舞台」だったのです。 洗礼を受けても信仰から離れてしまう人がいますが、それは、その人の中で、このイエスの死が意味ないものとなった時に起こる現象です。それは、イエスという一粒の麦を踏みにじる時であり、それによって生まれた自分という一粒をも踏みにじる時です。イエスのいのち以上に自分の命を愛する時であり、そこからその人の人生の孤独が始まるのです。 僕たちが人を愛する、その愛は教会にあります。キリストがからだなる教会を愛されたからです。そしてそのキリストに仕える気持ちが、夫を愛し、妻を愛し、人に仕える気持ちを生み出してくれるのです。その時あなたは一人じゃない。なぜならキリストがあなたとともにいてくださるからです。 キリストは2000年後の僕らの生活の中で結ばれていく一粒一粒を見ながら、「一粒の麦は落ちて死なずば一粒のまま。しかし死ぬなら多くの実を結ぶ」と語られました。「これぞわが栄光!」と。このキリストの栄光を、僕らも自分の生活の中で味わわせて頂きましょう。そしてこの栄光をキリストと共有する限り、僕らが信仰から離れることは決してないのです。
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