どうして食べてはいけない木なんかを園の中央に植えたの?これはひっかけ問題か?神さまちょっと意地悪なんとちがう?と、最初にこの箇所を読んだときは思いました。でも違うんですね。世界は創造主なる神が造られました。しかしその完成には、僕たち人間の「愛の選択」「いのちの選択」が必要だったのです。 園の中央には、まずいのちの木があったと聖書は言います。その次に善悪の知識の木があり、その木は、食べることが禁止じられていたのですが、神は僕らに「いのち」を選んでほしかったのです。いのちを選ぶとは、神を愛し、神に従う道を選ぶこと。そして、生物的な生命より大切なものがあると知った時、使命と役割に生きる時、人は本当の意味で生きるのです。 それは大きな決断をすることを言っているのではありません。どうしようもなくしんどい時、少し神の方に手を伸ばす、ちらっとイエスを見る、そんな行為を、神はご自分を選んだ行為と見て、喜んでくださるんです。僕たちは、いのちを選んだ者たちです。でも一回で終わりじゃない。今日も、明日も、明後日も選び続ける、これがクリスチャンの生き方です。 アダムが失敗したこの選択を、僕らが正しくできるのは、僕らが一人じゃないからです。愛するために生き、死んで復活されたイエスが、僕らとともにいてくださる。そして、どうしても駄目な時も、「あなたはどこにいるのか」と捜してくださる。その声を聞くなら、「私はここにいます。罪びとの私をあわれんでください」とお応えしましょう。その時、父はすぐさま、キリストのいのちで僕らを包んでくださいます。
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