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礼拝メッセージ

アブラハムの旅立ち
創世記12:1-8

召し、コーリングを受けるとは、神からの促しを受けること。そして心が変えられること。ただこれはあくまで「促し」であって強制ではありません。だから逆らうこともできるのです。でもそれは神があなたを祝福したくて、そのためにあなたに示されるもの。アブラハムは答えがないままに神に信頼して出発し、その結果、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリスト」と呼ばれるほどに、彼は人類の全ての祝福のスタートとされました。 僕らはもっと神に信頼して人生を楽しめばいいと思います。でも実際は、取るに足りないものを恐れ、楽しみ切れていないというのが実情ではないでしょうか。信仰とは、不安や恐れの中で、神に「恐れるな」と呼び掛けて頂き、その恐れの中にあっても支えられ、選び取って行く経験をし、それを体で覚えていくことです。実際アブラハムのやったことは、神の促しにしたがって、家畜を連れて引っ越しただけでした。が、大切なのはそれが神の促しへの応答だったということ。神は小をもって大をなさるお方なのです。 僕らも、神の召しにしたがって、「キリストにあって十分だった」と語れる人生を送りたいと思います。そのとき僕らの人生は、神の永遠のスパンのご計画の一部とされているのです。あとは神がなさいます。人生の主役は、神に従ったその時点で、すでに神にバトンタッチされているからです。日々リアルな弱さにもがく僕たちですが、僕らの回復のための努力は、世界の回復のご計画に結び付いています。そして僕らが感じる小さな回復の喜びは、再臨の時に世界をおおう喜びの予行演習なのです。