互いに愛し合うというのは、一方的に愛することより難しいことです。しかし愛とへりくだりの快い感銘を僕らが受け続ける時、今度は僕らの方からほかの人たちに対する「善」が湧き出る・・・これこそがキリスト者の偉大さ、教会の偉大さなのです。相手だけ見ているとそんなことはできないと思うかもしれません。でも相手を見るのではなく、その先におられるイエスを見るのです。「私の洗いなしには、私とあなたは何の関係もない」とイエスが言われた理由はここにあります。 大切なのは、イエスが何を為さったか。それは主の洗いがあったということ。それゆえに僕らは主の前に立ちおおせるのです。まず僕らが洗っていただいた。だから僕らも人の足を洗うんです。神の子イエスがここまで降りてきてくださった。だから僕らは降りていくんです。「互いに愛せよ」の意味するところは、なんと高く、深く、広く、長いことでしょう。 この弟子たちの中に、ペテロがおり、ユダがいる。そしてこの弟子たちをイエスは愛して愛して愛し抜かれたとある、この言葉に偽りはありません。つまりユダもイエスの愛から堕ちていないということ。どんな罪深い者であっても、今なお背いているものであっても、「自分の者」と呼んで下さるイエスの愛に変わりはなかった。その意味で、僕ら自身もイエスに愛し抜かれています。We are still in time. 悔い改めるに遅すぎることはありません。イエスから頂いた愛と信仰をもとに、互いに愛し合う者へと遣わされて行きましょう。
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