ペテロが発した「主よ、どこへおいでになるのですか」の問いは、全人類が発し続けている問いです。「神よ、あなたは私の人生で、この世界で、歴史の中で、何をなそうとしておられるのですか」と。ペテロはイエスの語った「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができない」という言葉にショックを受けますが、それは、十字架は神のみが歩める道、人間の歩める道ではないという意味でした。そしてその言葉通り、ペテロは3度イエスを否みます。しかし復活のイエスに赦されたペテロは、再び「私に従いなさい」と語られ、小説「クオバディス」によると、その命令通り殉教の死を遂げます。これが、イエスが語られた「今はついて来れないが、後にはついて来る」の意味するところでした。 ペテロも僕たちも、「あなたは何のために死ぬのか」が問われています。僕たちは、この問いを深く掘り下げない限り、いたずらに生に固執し、うろたえ続けて死を迎えることになります。それに対しイエスの開いてくださった門が、「いのちを得たい者は、十字架を負って私について来なさい」というチャレンジでした。十字架を負うとは、死に至るまでイエスの後を追い続けること。イエスはその道を開いてくださり、それほどに僕らに近づいてくださった。遠いと思っていた神が、今はイエスによって近くに来られたのです。だから「どこに行くのですか」はもう問う必要がなくなりました。ここでイエスが問われるのは、「あなたはわたしを愛するか」という問いだけです。さてあなたはこの問いにどう答えるでしょうか。イエスを愛する死であり、また生でありたいと思います。
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