僕らは困難に出会った時、自分にもっと強い信仰があったらと思います。が、神はそこまで求めておられないどころか、神はその困難・苦しみを、丸ごと抱きしめてくださっている・・・それを知ることが信仰です。そして、その渦中にあっても「神がそこまで一方的な祝福の約束、covenantを語られるなら、ひょっとして」と、ちいさな笑いが生まれてくる。そんな神への信頼と「抱えられ方」を、僕たちはもっと経験したいと思います。 アブラハムは神の言葉を聞いて笑ったと聖書にあります。サラも同じようにみ使いの言葉を聞いて笑います。この二人の疑いと不信仰。これを神は怒られたのでしょうか?もしそうなら、そこから生まれて来る待望の息子をイサク(笑い)とは名づけないでしょう。神は、彼らの1%にも満たない頼りない信仰を見逃さず、その信仰を大切にし、育て上げ、「ひょっとしたら」の笑いしかできなかった2人に、本当の笑いをプレゼントされたのでした。 僕らはイエスの焼き印を押され、イエスの衣を着る者たちです。今や、イエスのパフォーマンスに満足される神は、その弟である僕らにも満足しておられます。これが、僕らクリスチャンの自由さであり、「行い人生」からの解放です。さらにイエスの血に染まったピンク色の服を着る僕たちは、思うところ、願うところまで変わって来る。少なくともそのon the wayにある。そんな僕らを、神はドンと腰を据え、一つ一つ新しく変え続けて下さっています。そのことを覚え、その働きに僕らも召されていることを覚え、感謝して歩んでいきたいと思います。
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