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礼拝メッセージ

主のあわれみを信じてとりなす
創世記18:16-33

さばきは主の専売特許。でもそのさばきに口をはさむことを、言い換えれば、盾突くことを、主はアブラハムに期待されました。ソドムの町の罪を赦すにはこれだけの正しい人が居ることが条件という「数字」を、主は50人からどんどん減らし、最後は「10人いるなら滅ぼさない」と約束されます。 ソドムの罪は、貧しい人々、弱い人々に手を差し伸べず、弱肉強食が横行していたことだと聖書は語ります。では今の日本はどうでしょう。パワハラによる自死があっても組織を守る、保育園では幼児の逆さづりが発生する、いじめ、虐待は日常茶飯事という、まるでソドムのような日本。この国のためにとりなして祈ることを、主は今、我々に期待しておられます。 でも私たちのとりなしでは救えないという現実があります。ソドムはアブラハムのとりなしにかかわらず滅んだからです。実は、私たちは救われないとダメな罪びと、ソドムの住人なのです。でもこのような私たちの真のとりなし手として送られたのが、主イエスキリストでした。 敵であった私たちのために、体を張って命を注いでくださった主がおられたことで、今の自分がある。それゆえ私たちは自分の敵としか思えないような人のためにもとりなすことができるのです。とりなすことは、主に似た者に変えられつつあることの証し。今も降り注ぐイエスのあわれみを受け、とりなす者として新しい週も遣わされて行きましょう。