愛するマリアが妊娠!?なんというショックでしょう。「それは聖霊によるって?そんなこと誰が信じれるものか!いったいどう離縁するのが自分にとって正しい道か?」セルフトークの連続だったヨセフは、この時、「神なき正しさ」に生き、でもそれでは解決できない問題の中で、悶死寸前だったはずです。 世の理屈では離縁が正解でしょう。が、その時、神の視点が与えられます。「この子はご自分の民を罪から救う神の子だ」と。自分は正しい者と思ってきたが、その「正しさ」ゆえにマリアを切り捨てる、その程度の男だったことにヨセフは気づきます。自分の愛の無さと自己中心に気付いた時、彼は、そんな罪びとのために御子を送ろうとしておられる神の愛を知るのです。 神の子がこれまでの在り方を自ら破壊し、この世に人として生まれ、33年生きたうえで十字架に死んで復活し、全人類の罪の贖いを成し遂げようとしておられる。その御子を迎えるクリスマスがやって来ます。光から闇への危険な旅。僕たちもこの主を迎えるにあたって、自分の殻にとどまることなく、自らの大変革を恐れず、お迎えいしたいとおもいます。 神は愛する者に自由を与えます。アダムも、アブラハムも、マリアとヨセフも、神の側を取るか、反対側を取るかについて自由に選べました。僕らもすべてが自由。これが神の愛し方です。そしてこの自由の中で何を選ぶかで僕らの人生は決まって来ます。この神の愛に驚くとき、僕らの選ぶべき道もおのずと決まって来るのではないでしょうか。
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