人類の歴史はBCとADで分かれていますが、ADはラテン語の「主の年」の短縮形。教会の存在は、主が来られた証しです。主は「わたしにはあなたがたの知らない食物がある」と言われました。神のために働く者には、イエスと同じ「食物」、神の助けが与えられるのです。 ヘロデ王は、権力欲と猜疑心の塊でしたが、その取り巻き、エルサレムの人たちも「王と同じだった」と聖書は言います。ヘロデが失う事を恐れたように、彼らも自分の今持っている地位、特権、お金を失う事を恐れたのです。さて僕らの心の中にこのヘロデ王はいないでしょうか。 メシアと出会って、今持っているものを手放して、新しい旅、危険な旅に出るか、それともこれまでの自分に留まるか。これを鋭く問いかけて来るのがクリスマスです。自己中心のままでは、キリストを礼拝し、真の交わりに生きることはできないのです。 あなたは最終的に何を求めていますか。主は再びこの世に来られます。僕らは今、主の再臨を待ち望む待降節、アドベントに生きています。あなたもこのクリスマス、持っているものを手放してメシアと出会う旅に出ませんか。「主よ、来たりませ」と再臨の主を待ち望みつつ。
カテゴリー