ペテロの手紙は、サラのことを、神を恐れかしこむ良い生き方をしたと高く評価しています。が、実際のサラを見ると、神に望みを置くよりも人間的な解決を求めてハガルをアブラハムに与えたり、はたまたハガルが身ごもると今度は2人して自分を馬鹿にしているとハガルを追い出しにかかったりと、しっちゃかめっちゃかで僕らと大差ない人生です。 ところがサラはイサクを生み、「神は私に笑いを下さった」と言います。これは、神がアブラハムを通じて全人類を祝福するという神の壮大なご計画の最初の一歩に自分がかかわれたこと、また神の御心のど真ん中を歩いていることへの、喜びの表現でした。事実、サラのイサクを生むという働きがなければ、モーセも、ダビデも存在せず、イエスキリストのお働きもなかったわけです。 サラは神の国を建て上げる使命に生きたと言えます。同じく、僕らが密室で捧げる祈りも、人知れず流す涙も、神の国の見えない下地に用いられます。ビルの全容は主の再臨までわからないし、土台は更に見えませんが、罪や弱さゆえに神の計画からそれることはあっても、神の御手からこぼれ落ちることはないことを知って、僕たち信仰者は、自分に与えられた使命と、持ち場を通しての神の国建設に大胆に生きたいものです。
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