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礼拝メッセージ

まことのぶどうの木と枝
ヨハネ15:1-6

神は僕らに与えたくて与えたくて仕方がなくておられます。いや実はすでに与えられていて、だから、「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:8)と僕らに語るのです。でも、僕らはなぜか求めない。つまり、目の前に、神の用意された魚いっぱいのいけすがあるにも関わらず、そこには糸を垂らさないで、わざわざどこかの水たまりや、プールや風呂桶まで出かけて行って糸を垂らすのです。だから釣れないんです。 「イエスを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15:5)と言われると、僕らはつい反発します。ところが、「喜んでいる者たちとともに喜び、悲しんでいる者たちとともに悲しむ」という基本的な愛すら示しえないのが僕らなのです。なぜならチームの勝利より、自分の評価の方が僕らにとってはよっぽど大事であって、チームメートが活躍した時にその本人と同じだけ喜ぶという愛を、僕らは持ち合わせていないのです。 聖書には、「神は僕たちがもっと多く実を結ぶために刈込をなさる」ともあります(ヨハネ15:2)。神の「刈り込み」は痛く、時には血が出ます。が、パウロが3度主に願いながらも、「サタンの使い」が彼を去らなかったのは正に「刈り込み」であり、それを通して本来の頑張り屋ゆえの自力本願、ペラギウス主義から彼は解放されました。神の恵みに生きる本物の使徒パウロはここから始まったのです。僕らも、神の「刈り込み」にある御心に気づいて、それを重んじたいものです。