1、主の導き:救いは完全に主の導きによってなされます。ピリポはサマリアで順調に宣教の働きをしていましたが、主の導きに従いました。主は私たちのことも日々導かれており、主の示されたところへすなおに向かうよう求めています。
2、導き手として人を用いられる:主はピリポに、エチオピア人の宦官の馬車と一緒に行くようにと言われました。主は私たち人間を、主の導き手という重要な働きに召されます。 声をかけられた宦官は、イザヤ書43章についてピリポに尋ねます。異邦人の彼には、ふさわしい導き手がいなければ聖書の示していることがわかりませんでした。そこでピリポは成就されたばかりのイエスの福音を語ります。イエスキリストは、ユダヤ人だけでなくすべての人に救いをもたらすためにこられたのです。
3、救いの喜び:彼はためらうことなく受洗を決意します。はっきりと自分が救われたことを確信していたのです。バプテスマを受けて水から上がった彼は喜びに溢れていたでしょう。主の導きによって御言葉が心に届き、福音を心から受け入れることができたからです。
まとめ:救いのみわざは、このように主が先導し、人を通して行われます。御言葉はまことの神の言葉ですが、いつでも誰でも、その真理を容易に理解できるわけではありません。そんなとき、ふさわしい導き手がいて、主の助けがあって、私たちは御言葉の真理に到達することができるのです。 私たちは誰もが御言葉の導き手になることができます。主が言葉を導いてくださると確信していれば、ピリポのように、私たちも主の導きにしたがって語ることができます。私たち自身も、救いの喜びを味わったものとして喜びに突き動かされて福音を伝えていく者でありたいです。