ダビデは「ゆえもなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多い」と詩篇に歌っています。神に従う者は理由もなく憎まれる。それは、「人間には生まれながらにして神と人を憎む癖がついている」ことが理由だと、ハイデルベルグ信仰問答集は説明しています。そして僕らは憎まれる時、その相手に対する憎しみが沸き起こるし、同時に神に対しても憎しみを持ちます。どうしてこんな目に遭わせるのですかという思いです。
我々が憎しみに対して憎しみで応じるなら、その時、家庭に、教会に、「世」が入り込んでくるのです。憎しみで応じる限り、そこには何の解決も生まれないけど、愛とあわれみで応じるなら、たとえDVを働く親とでも心が通じ合うのです。でもその愛とあわれみは、僕らからは出てきません。十字架にかかって下さった神の子イエスに倣うとき、初めて僕らは、愛とあわれみを持つことができるのです。
そして主は、どれほど僕らが悲しい思いの中に在っても、あなたは一人じゃないと言ってくださるのです。叩かれた時は、わたしが叩かれたことを思い出せと。あなたが憎まれた時はわたしもその憎しみに身をさらしたし、辱めを受けた時はわたしがその頂点である十字架に死んだことを思い出してほしいと主は言われます。わたしの完璧な愛を思い出してと。「しもべは主人にまさらず」とは、すでに勝利してくださった愛の中に僕らは立たせて頂いているという事です。