あの時代の夕食は、家族生活の中心でした。電灯はなく、たいまつとランプだけ。街灯もないから、夕食後歩いて帰る人はおらず、そこに誰かを招き入れるというのは、その人を家族生活の中心に巻き込むこと。それこそがイエスの願っておられることでした。主は「わたしをあなたの人生の経糸・緯糸として織り込み、わたしの恵みがあなたの人生の隅々にまでいきわたるように」と望んでおられます。
変化は救いの条件ではなく、救いがその人を変えるのです。そしてザアカイは、イエスの愛が稲妻のように彼を貫いたとき、自分から「だましたものは400%返す」と宣言しました。これはどこかにそう書かれているわけではなく、自分から言い出したのです。彼の中の子供が、「お父ちゃん!」と叫びながら起き上がり、福音がザアカイを冒険の旅へと送り出したのです。子供として抱っこされ続けるのが、信仰生活なのです。
ザアカイは子供のように木に登り、子供のようにイエスを迎え、子供がお父さんに「パパ、見て!」と叫ぶように「主よ、ご覧下さい」と叫び、まるで子供のようにそろばん勘定を外しました。このすなおさ、軽やかさ。これこそが、イエスが何度も言われた「子供のようにならなければ、だれも天の御国に入ることはできない」の中身なのです。信仰とは心の中の子供を取り戻すこと。僕らはこの「子供の心」をどれだけkeepできているでしょうか。