マリアはイエスの復活を期待して墓に来たわけではなかった。マリアは死んだイエスを探していた。だから生きたイエスに出会ってもピンとこなかったのだ。僕らはこのように、本当の神を探さず、自分が動かせる神、知的優越感を持たせてくれる神を求めている。神は聖霊を通して僕らにたくさんの説明を与えてくれるのに、この神から僕らは逃げてきたのだ。
ギリシア語のeisの英訳はinto。従い「イエスを信じる」の英語は本来believe in Jesusではなくbelieve into Jesusであるべきと英語圏の聖書学者は言う。自分自身をイエスに突っ込むところまで行かないと信じたことにならないと。復活のイエスを信じ切り、突っ込んで預け切る。そうならない限り、承認欲求中毒の僕らは、職場で主の誠実さに生きることはできないのだ。
キリスト教は古代の世界においては周辺文化だったが、それが世界を征服した。どうしてそんなことが起こったのか。そこにイエスが存在したからだ。イエスの墓がないのは、イエスがいたから。彼らはイエスの存在をガンガンに感じ、また信じていた。それもただ信じていたのではなく、そこにbelieve into、突っ込んでいったのだ。
福音の根幹は「神はこれまで僕らが信じてきた以上に聖なるお方、かつ愛なる方であり、それゆえ僕らのために死ななければならなかった」ということ。自分はいい人間でなく、罪びとであり、霊的な奴隷状態から解放されなければならないと。このことがわかるまで十字架は理解できない。が、それが信じられて、なおかつこのモデルを現実に当てはめるなら、その時あなたに革命が起こるだろう。