キリスト教の改心は事実に基づいたもので、具体的には、神が人となり死んで蘇ったという事実に基づきます。実際蘇りのイエスに出会ったという人が当時数え切れないほどいましたが、この外的な証拠をもとに考えるのがその第一歩です。
パウロは霊的な目が開き始めた時、これまで自分がいかに盲目だったかに気づきました。全てのクリスチャンはこの経験をしています。それは、神の神聖さと真実さ、そして自分の罪深さに気づき、これまで「そんなもの見たことがない」と言っていた自分の愚かさに気づくことなのです。
パウロのステパノへの殺意は、「私は何とみじめな人間でしょう」という思いへの抵抗で、とげの付いた棒を蹴る「痛い行為」でした。それと同じくもし僕らに、今向き合っている困難があるとすれば、それは自分を間違いから引き戻すための神の愛のあおりかもしれません。その解決は、とげの付いた棒を蹴るのを今すぐ辞めることです。
ステパノは、自分の人生が崩壊した時も彼自身は崩壊せず、神を見つめ、真理に生きました。その姿をサウロは見たのです。全てが崩壊した時にこそ、それが本物だという証拠となり、人の心を打ち砕くのです。その時の改宗者は一人だけでしたが、その改宗者がのちに世界を変えました。あなたが従順であれば、神はあなたを通してとんでもないことをされるのです。