なぜ「花の」なのか。それはパウロの伝道人生の最高潮がこのエペソ滞在中に来たからです。まずは会堂で3か月、その後ティラノの講堂に移って2年、彼は毎日、神の国ついて語りました。それは「純粋の埋没」による宣教であり、だから成功したのです。
律法は「純粋の孤立」を求めます。が、パウロやその後の宣教師たちはみな出て行きました。相手の文化に染まらぬ「純粋」を保ち、一方で祈りつつその地に「埋没」することで、地の塩・世の光としてのほどよい塩気とかがやきを放ったのです。
パウロは伝道旅行中、素晴らしい癒しの奇跡を行いました。が、それを使って自分の「とげ」を癒すことはできませんでした。つまり奇跡は自分の為のものではなく、あくまで伝道に用いられるべき賜物であって、主語は常に神。パウロを通してそれが為されただけなのです。
苦難はクリスチャン・ノンクリスチャンを問わず訪れます。それをサタンが扱うと誘惑となりますが、神が扱うなら、試練は訓練となり、その人を成長させます。信仰者にとって試練は父の許された訓練。苦難とめぐりあうたびに、そのことに期待する信仰を持ちたいものです。