パウロは、使徒の働きの20章以降、宣教活動が波乱に満ちてからは、特に友との時間を大切にしました。それはイエスが、十字架が迫る中で12弟子たちに心の内を語り続け、ゲッセマネでもご自分と共に祈ることを3人の弟子たちに求められたのと同じでした。
創造の目的、贖いの目的は、神が人間を友としてご自分のそばに置いておくためのものでした。僕らが友を求めるのは、神が人間をそのように造られたからです。さから「友達なんていらない」と言うなら、その時僕らは神に似た者でなくなっていくのです。
「迫害の待つエルサレムには行くべきでない」と聖霊から示しを受けた友の進言に対し、パウロは、「私は聖霊に縛られてエルサレムに行く」と、自らの主張を時間をかけて語ります。決断を共有し、献身と人生を分かち合うのが真の友。友情こそが最強の人間関係なのです。
友情が永遠に続くなどと主張する宗教はほかにありません。仏教はすべてが最後は無に帰すると教えますが、キリスト教は三位一体がその根幹にあります。全ての被造物は人間がそれを通して神を見上げるためのもの。だから聖書は「人生は神の友情からできている。それを手に入れよ」と語るのです。