ヨナの怒りは、自分はいい人間という思から来ていました。神はなぜあいつらを罰しないのかと。道徳主義のこわさはここにあります。「よい人」の心に悪の芽生える姿を、聖書ははっきり描きます。イエスに暴力をふるう人間は、みな人から尊敬される人たちでした。しかしイエスは、自らいのちを与えるために来られた救い主なのです。
復讐とあきらめの両方を神は許されません。復讐は、加害者に苦痛を与える行為であり、あきらめは、なかったことにする思いです。後者は一見クリスチャン的ですが、真実を語らず、正義も平和も求めません。その身勝手さから言うと、復讐と大差ないのです。神は赦しを求められます。それは自分の受けた傷をわきに置いて、その人に対峙すること。愛と赦しのない「正義」の中身は、復讐です。
赦しの秘訣は、あなたがどういう人間かに立ち返ること、そこから得られる福音的アイデンティティーにあります。ヨナの怒りは、恵みによって魚の腹から救い出されたことを忘れたことから出ていました。だからイエスを見よと。主があなたにしてくださったことを見よと聖書は語ります。
会いたくない人に会い、話しかけ、笑顔を注ぐ。この神との共同作業の一つ一つが、福音宣教の核心です。すねたヨナに寄り添ってくださった神が、今日僕らにも寄り添って下さっています。福音のアイデンティティーから外れて、怒ったり、落ち込んだりしすぎていないですか。ヨナを用いられた主は、あなたもお用いになります。