イザヤ書には3つの出エジプトが描かれており、それらはモーセの出エジプト、クロス王によるバビロン捕囚のから帰還、およびイエスキリストの十字架でした。イザヤの時代、すでに起こったのは第一の出エジプトのみで、「荒野に道を設ける」の預言は、バビロン捕囚からの解放とその後のエルサレムへ道がハイウエーのように守られたことにより、その200年後に実現しました。
また変貌山で、イエスがモーセ、エリヤの2人と話し合った「最後のこと」が、そのままエクソダスでした。これは、十字架イコール「出エジプト」であることの証拠です。そのため「処女が男の子を生み、その名はインマヌエルと呼ぶ」「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともない」など、イザヤはイエスについて、まるで同時代にいたかのように事細かに記しています。
第一、第二の出エジプトは、主イエスの十字架の型でした。しかしそれだけでなく、僕らのコミュニティーがそろって、次の次元に移されることも意味します。それが神の言う「新しいこと」。その「出エジプト」を体験するには、過去の栄光に縛られない信仰に立つことが必要です。それは「常識」や「確信」には、世の雑多なものが混じっているからです。
「先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。見よ、わたしは新しいことを行う。今それが芽生えている」と言われる神に働いて頂くために必要なことは、イエス以外の礎石を排除し、死んで復活し、こんな自分も愛し用いようとしてくださる方に信頼を置くことです。うまく行かない時にこそ、この神に委ねる。それが全ての始まりです。