「従います。しかし今は別のことが優先です」は違う。弟子にとってはイエスが第一であり、最優先でなければならない。さもないとあなたの心は霊的な死に体だとイエスは言う。イエスは誰でイエスが何をなさったかはもう知っているが、イエスが自分の生活の中心ではないというのは、あなたが本当は何もわかっていないことを示していると。
この世から何かを得ても、それによって自己を確立することはできない。自己を確立した気になっても、それは不安定極まりない。なぜなら世の何か自体が不安定だから。そうではなく、イエスが誰でイエスが何をしたかを知り、その上に自己を確立せよ。今あなたにできることはまずこのイエスに仕え、それによって自己を失うことだ。
エリヤは火を下したが、イエスはそれを拒絶した。またゲッセマネでは、自分を追い詰めた兵士に火を下すどころか、その耳に手を置いて癒され、また「父よ、彼らをおゆるし下さい」とも祈られた。ご自分は火をもたらすために来たと公言したにもかかわらず。それは火の方向が違ったのだ。イエスは十字架で私たちが受けて然るべき火を全部受けてくださった。
イエスは言う。私だけはあなたを去らないと。キャリアはあなたのために死ぬことはなく、あなたの父母もあなたを残して先に死ぬ。しかしわたしだけは、あなたがわたしを得るなら、あなたを去らない者であり、あなたがわたしを裏切ってもあなたを赦す者だと。この感動を知った者にのみ新しいアイデンティディーが与えられるのであり、これが真の弟子の姿なのだ。