僕らが良きサマリア人のように、周りの人に対して「隣人」となる動機は、2種類考えられます。ひとつは良心や罪悪感から来るもの。もう一つは驚きから来るものです。前者は、不十分な方法で、あなたを遠くへは連れて行ってくれません。しかし後者は完ぺきな方法で、それはあなたが、本来拒絶されて当然の人から驚くような恵みによって救われる経験をした場合で、その時あなたも「過激な隣人」となり、「過激な愛」を施す者となります。
イエス・キリストは創造主ですから、僕らはイエスに対しすべてを欠いています。が、福音は、神の子イエスがそんな僕らにあわれみを示され、僕らの倒れていた道に来られたと言います。「大いなるサマリア人」であるイエスは、強盗続出の、危険極まる「血の峠」で、僕らのために、命を危険にさらすだけでなく、その命を100%犠牲にして捨て去ることで、僕らをご自分の鞍に乗せ、救出くださいました。それゆえ僕らは義とされ、罪なき方が罪とされたのです。
神は、この「大いなるサマリア人」であるイエスを通じて、その愛とあわれみをあなたに示しました。あなたが、わが命を犠牲にしてあなたを救ったこのイエスの御業を心から理解し、その愛の深さに打たれ、「どうして自分のために神が死なれたのか」と、その驚くべき愛、amazing graceを歌い始める時、あなたもこのサマリア人と同じように出て行くことが出来るのです。