「赦しの生活をせよ」と言われ、弟子たちは「そんな信仰は与えられていません」と応えました。その弟子たちにイエスは、「何か悪い事をされたら、まず自分自身に気を付けよ」と言うのです。それは、赦さないまま、いやな出来事を放置するなら、苦い根が生え出て、あなたを悩まし続け、怒り(wrath)はゆがみ(wreath)となり、最後にあなたを幽霊(wraith)にするからと。伝説によると、幽霊は過去に縛られ続ける存在だが、そうならないためにも、あなたは赦さなければならないと。
赦すとは、まず加害者を自分と同一視し、加害者の罪を心の中で償い、加害者のために良いことを求めること。僕らは普通、やられたらその「貸し」を、相手に返済させたいと願うものですが、その貸しをあえて自分で支払い、相手には払わせないことと決断する。これが赦しの第一歩なのです。
どうすればそんな「赦し」が可能なのか。それは唯一、自分のために奴隷となられたイエスを見、イエスの為された全体のストーリーの中に自分の小さなストーリーをはめ込むこと、その時初めて「相手に支払わせない」決断ができるのです。ツァラアトを癒されたサマリア人が戻って来たのは、イエスが究極の祭司であり、そこに真の癒しと、赦しと、きよめがあると知ったからでした。我々もこの唯一の存在に帰ろうではありませんか。