全能の神が、人を赦すのに、なぜ「赦す」とひとこと言って赦さないのか、なぜ血が必要なのか。それは言葉が赦しの通貨ではないからです。赦しの通貨は釘であり、いばらであり、血であり、涙であり、汗だということ。100%完全無欠の神が僕らを赦すには、僕らが神を傷つけたことによって生じた債務を、神自身が支払うという方法しかなかったのです。そしてそれが二千年前に起こった事でした。
イエスが「わたしの死を食事とせよ」と言ったのは、それを個人的なこととして毎日味わえということ。また継続的に取り続けなければ死んでしまうという意味も、そこには込められていました。さらに「覚えて行え」は、十字架の意味を人生の中心に置き、あなた自身の人生を再構築せよ、実生活の中でそれを実践せよという意味です。
十字架は、「苦しみ」というものが僕らにどう映るかを示します。十字架で死にゆくイエスを見上げ、全ての人が怒りながら「ここから神がいいものを引き出せるはずがない」と思ったでしょう。しかしそれは神が人類のために行った最も偉大な行為でした。十字架を通すなら、悪いことは良いことに変わり、良いことは決して奪われません。十字架を持ち込むなら、あなたが希望を失うことは決してないのです。