「もしそれを与えてくれるなら、私はあなたに従います」の祈り、この「AならBします」の構文において、あなたの目的はAであり、Bは手段。Aはあなたの「神」なのだ。従い、「あなたが『この神』に私を仕えさせてくれるなら、私はあなたに仕えます」という、人をおちょくった祈りを捧げている間は、物事は進展しない。悔い改めた強盗は、そうではなく「このトラブルから救われるかどうかに関係なく、私はあなたと一緒にいたい」と祈ったのだ。
あなたが今仕えているものを識別し、神に近づいて「それを置き換えたい」と祈らない限り、あなたは前に進まない。これまで持って来た「目的」と「手段」をここで逆転させる覚悟があなたにあるだろうか。それが出来るまで、イエスとの出会い、あなたの人生を変える本当のイエスとの出会いは、期待できないことを知る必要がある。
悔い改めた強盗の「私は罪深い、だから私を受け入れて」という祈りは一見矛盾しているが、それが可能となる唯一の理由が、「審判の日」の暗闇がイエスの上に降りかかったことにある。それはあなたが裁きを受けることが無いように起こったのであり、これが、「私は罰を受けるに値する人間、だから私を受け入れてください」とあなたが言う時、それが意味を成す唯一の理由なのだ。
キリストの物語を読んで、あなたは変えられただろうか。この話は聞いたことがあるし知っているというだけでは、あなたは理解していない。もし、あなたが神にとってどれほど喜ばしい存在かを知り、それを本当に理解し、それがあなたを溶かし、あなたの生き方を支配するなら、あなたは人の批判に動揺せず、傷つかず、権力を必要とせず、もっと自由に、優雅に、優美に、人生を生きられるだろう。そしてその歩みの中で、あなたはイエスに似た者に変えられて行くのだ。