所有として印づけられた者たち
エペソ1:11-16

福音は、歴史上であなたのために為された事の良い知らせであり、生き方に関する奨めではありません。愛されていることが全てのスタート。良い生き方は、その神への応答として始まります。イエスは死んでよみがえられたということを信じられるでしょうか。もしそれが信じられないならそれは神ではなく、その奨めに従う必要もありません。

聖書の奨める生き方がしんどいと感じるのは、元々キリスト教の見方が間違っている証拠です。そうではなく、あなたのために為された事をまず直視しましょう。あなたはイエス自身を見つめたことがあるでしょうか。イエスを見つめるまでは、キリスト教を学んだことにはならないのです。

聖書の「希望」は、未来の人生を形作る確信です。世の終わりには神が全ての悪を打ち砕くと信じている人の人生は最終的に明るくなり、その味は甘くなります。なぜなら、我々人間は希望に生きる存在だからです。

私たちは神の相続財産。ゆえに銀河を所有する神が、私をみて「価値がある」と言われるのです。神の栄光は、最後の日まず私たちに降り注ぎ、そのまま世界のすべてを正します。この素晴らしい未来を知るなら、現実は本の表紙でしかないのです。聖霊は我々が御国を受け継ぐことの手付金であり、その栄光の一部は、聖霊を通してすでに私たちの内側に存在するのです。

我々が神の宝物であることの証拠は十字架です。なぜならそこは、父と子が、あなたのために互いを失うことを厭わなかった場所だから。また未来の栄光の証拠はクリスマスにあります。イエスはその日、我々を神の栄光とするためにご自分の栄光をお捨てになりました。天から下り、自らを空しくされたイエスを見るなら、栄光が確かに来ることが分かります。そしてその一部はすでにあなたの人生の中に在るのです。