たとえ死んでも
エステル4:5-17

神は世俗の仕事をも天地万物の再創造に用いられる。それは黙示録の描く最後の姿が、完全な物質世界を再構築することだから。ユダヤのバビロン捕囚からの帰還後を見ても、神はエズラという教師、ネヘミヤという建築管理士、王妃エステルを用いられた。

あなたは宮殿都市、東京に居り、外の人たちはあなたの力を必要としている。つまりあなたは街に仕えるためにここにいるのだ。モルデカイは「社会秩序を正せ。行動せよ」と言い、それを聞いて「すべてを捨てろと言うのですか」と反問するエステルに「自分だけが安全地帯にいると思うな」と手厳しい。

それはあなたへの、「宮殿の地位に自分の価値を置くな。もしそうならあなたは、宮殿を失う時すべてを失う」という戒めでもある。あなたはモルデカイの言う、宮殿に吞み込まれないアイデンティティーを持っているだろうか。

今の地位に就くためにあなたは多くの努力を払ってきたはずだ。が、「ひょっとするとあなたはこの時のために今の地位に就いたのだ」とモルデカイは言う。「就く」は受動態で、主がそこにおかれたのだ。つまりこれまでの努力もチャンスも全ては主に根差しているのだ。

そのことに気づき、エステルは「同一視」と「仲介」によって民を救った。このことは究極の宮殿を捨てたイエスを思い起こさせる。イエスは、値しない者のためにご自身の血を流してくださった。「たとえ死んでも」は、真の宮殿に生きる者の姿なのだ。

あなたは神の作品、ポエムなのだ。「それゆえにわたしはあなたを良い働きに召した」と主は言われる。あなたが自分を神の子と理解しているなら、あなたには使命がある。主の用意された「良い行い」が何であるのか、主に尋ねてみようではないか。