互いに一つに結ばれて
エペソ2:19-22

人が望むことは基本的なことで、愛を見つけそれが永遠に続くこと。カミュは、「神が存在しないか、神を見つけられないなら、心の中のすべての渇望は灰に帰する」と言い、ハイデッガーは「それゆえに、全ての人間は不気味さにさいなまれている」と言います。不気味さとは居心地の悪さ。パウロが「イエスキリストを見つけ出すまでは、全ての人は異邦人(≒feel at homeできない)」と言ったのはそのことだったのです。

パウロは、神と自分たちの関係について、「王と町の市民」「神の家の家族」「聖なる神のために建て上げられる神殿の石」の3つを提示します。「神の家族」を語る時、僕らは自分の欠点や葛藤を、包み隠さず教会家族に祈ってもらっているでしょうか。家族には透明性があるからです。また神が宿られるのは、僕たち石の作る空間、神殿の中です。それは僕たちがみ言葉を語り、共に祈り、人生で神がなされたことを語り合う時に起こるのです。

イエスをどうやったら自分の人生の礎石にできるのか。イエスは捨てられ、宇宙的な孤独を味わわれました。それは本来捨てられるはずだった我々が招かれるため。そしてそのことゆえに、我々の礎石となることがおできになるのです。本来外国人だった我々が神の家族とされました。あなたはこの礎石に語り掛けているでしょうか。

死の床で「もっと仕事をすればよかった」という人は無く、皆「もっと家族や友人と過ごせばよかった」と言うそうです。人生の本質は愛であり、共同体。共同体なしでは、互いのこともイエスのことも深く知ることはできません。「神なしではあなたの最も深い願いは必ず灰に帰する」と言ったカミュは正しかったのです。愛こそがあなたの求めてきたもの。それは具体的には神の愛でありその共同体です。そしてこの愛は文字通り永遠に続きます。