100匹の羊のたとえで迷い出た1匹は、自分の中にいる子供の姿も表わします。その自分を振り返った時、神の造られた本来の自分がどこかに行ってしまっている、あるいはたとえ残っていてもボロボロになっているということはないでしょうか。逆に僕らが一番生き生きして、一番自分らしかったのはどういう瞬間だったのでしょう。主イエスはこの本来の自分の姿を取り戻すために、出て来て下さったのです。
自分に似た子を愛せないとしたら、それは自分を愛していないからです。でもその部分こそ、その子のその子たる部分であり、神がもし設計図を用意しておられたら、その後ろに詳細図が何枚もついているような最重要部分であり、それがイエスの最も愛した一匹の羊なのだと分かりました。そしてその時、その子がかわいくて仕方なくなりました。そこにイエスの愛と喜びのまなざしがあり、それはそのまま、自分への平安のまなざしでもありました。
12歳のイエスがエルサレムの神殿に残った時、翌日慌てて捜しに来たマリアとヨセフはイエスを叱りました。しかし天の父なる神は、それでよいと言っておられた。だからイエスに迷いはなかったし、その御声は十字架で「わが神、わが神…」と叫ばれる直前まで聞こえていたはずです。僕らも今、その席に招かれています。それは、三位一体の愛の交わりの席、主の晩さんの4つ目の椅子です。
ベートーベンしかり、ゴッホしかり、その作品は作者の人柄を表わします。自分の中の「子供の自分」は神の作品ですが、それはそのまま僕らが神の人格を知る最短のルートでもあります。そこに映し出された良いものを見る時、「主は良いお方」とそれ自体が語るのです。この良いお方の祝福の中で、この2026年を歩みたいと思います。
