祈り
ルカ10:38-11:13

「足元に座る」は当時、ラビの弟子になることを意味しましたが、マリアはイエスにそれをしたのです。マリアの奉仕の核心は個人的な関係にありましたが、マルタは常に過労といらだちの中にいました。それは「イエスのため」から始まったことが、知らないうちに自分を証明し、人の評価を得るためのものとなり、イエスは逆に不満の対象にすらなっていたからです。

マルタの祈りは物事を求める祈りであって、イエスと共にいる祈り、み声を聞く祈りをマルタは端折ってしまっていました。問題は聖書を読むとき、そこにイエスの声を聞こうとしているかどうかです。私たちはマルタ的な世界とマリア的な世界を行ったり来たりしますが、神はあなたを、マリア的な世界に招いておられます。そして、イエスがなぜそうされたのか、あなたのために何をしたのかを考えること、それがキリスト者の土台であり燃料なのです。

私たちに本当に必要なものは聖霊であり、それはそれが私たちに「関係」を与えてくれるからです。ジョンニュートンは、「喜びと義務は、以前は相反していたが、今は一つになった。それはイエスの美しさを見たからだ」と言います。また「祈りによって戦わせてくれ。キリストがそれを成し遂げられたから。キリストが船に居られるなら、私は嵐の中で笑う」とも言いました。イエスの目線に立つ祈りがあるなら、私たちは何にでも立ち向かうことが出来るのです。