パリサイ人は道徳的な「義」に極端にこだわりました。義は承認されることを指すからです。しかし彼らは外見の正しさにこだわり、それは分離主義に繋がりました。「立って祈った」は、一人別の所で祈ったということ。つまり「私は奴らとは違う」という意思表示でした。
正しい行動は救いの前提ではありません。本当に信じたら行動はついてくる、「内から外へ」が原則だからです。逆に「外から内へ」の考えの人は、いい人生を送ると神はそれに報いてくれるはずと考え、どれだけ頑張っているかを人に見せて承認を得ようとします。とにかく神の恵みに依存していないのです。それに対し取税人は、「私には罪の贖いが必要」と祈り、自分の行いの下にある罪を悔い改めようとしました。
イエスは存在そのものが贖いでした。なぜなら「今だけは一緒に祈ってほしい」と頼んだ直後に弟子たちは寝こけており、でもその弟子たちのために死なれたからです。つまり僕たちは、何の役にも立たない者だけど受け入れられているということ。ですから、死ぬ前に「自分は十分な人生を送ったか」と問う必要はなく、神の承認を問う必要はもはやないのです。
救いとは、内から外に向かうもの。その時、その人は親切で、慎重で、魅力的です。あるオリンピック選手が「一番自然が、一番力が出る」と言いましたが、「変わらなくてもいい」という言葉が、長期的に、最善に、あなたを変え続けるのです。僕らももっとリラックスして、イエスの承認を伝えて行こうじゃありませんか。