クリスチャンになることは、プロセスではない。クリスチャンは全員キリストの中に居り、全ての恵みを持つからだ。復活もそのうちのひとつだ。復活はキリストの正当性の証明であり、勝利のしるし。そういったイエスの誉れがそのままあなたのものになる。つまり、イエスの胸に飾られた勲章があなたの胸に輝き、世界がそれに向かって敬礼するのだ。とにかく、「これまで頼ってきたものに頼るのは辞め、イエス様、あなたが『これはわたしがあなたのためにしたのだ』と言う、そのあなたに信頼します」と言うことだ。
過去の仕業に罪悪感を覚えることはある。しかしパウロは「今や罪の宣告はない」と言い切る。なぜそんな自信を持てるのか。それは「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることはない」(ローマ8:1)により、彼はキリストの中に生き、キリストに在って生きているから。それゆえ彼は「私は貧しいが、キリストに在ってすべてを持つ」と言えるのだ。
神が父となる時、あなたはアクセス権と相続権を手に入れる。たとえ相手が大統領であってもあなたは彼の子。だからノーアポで父の胸に飛び込んで行けるし、全財産を共有する。もし雇用の関係なら契約期間のみ有効だが、親子の関係は永遠だ。
贖いは単なる借金返済ではなく、身代金の支払い。これは奴隷状態からの解放なのだ。僕らが今奴隷なのは、自分があるべき姿ではないことを知り、それから逃れるために外に行って、「自分は大丈夫」と自分と他人に示そうとするから。本当の自分を覆い隠しそれに向かってひた走ること自体が、奴隷のそれなのだ。
たとえ神のためにやっても、それがうまく行かなくて僕らはしばしば打ちのめされる。が、その時僕らは、それが神の為の奉仕ではなく、自分を覆い隠す手段でしかなかったことに気づく。奉仕に仕え、仕事そのものに仕え、それが最後はあなたを地面にたたきつける。そんな僕らを贖うのはイエスの血潮である。僕らは、イエスがこの僕のために十字架にかかられたと知る時初めて、客観的に受け入れられ、救われる。その後、それを心に刻む主観的な歩に入る。これが祝福のプロセスなのだ。