救いとは、僕たちがこの世の奴隷状態から解放されること。それまで僕らは、高慢、うぬぼれ、自己中心の中におり、天空の支配者、悪魔の下にいた。ルターは罪を「心が内側に湾曲した状態」と定義したが、それは、神を含めたすべてを、ただ自分のために求める心であり、これが自己中心性だ。自己中心性は人を道徳的にし、宗教的にもするが、そのすべてが自分の為なのだ。
全ての人の人生は、自分がクズではないことを証明するための戦いであり、そのために誇るべきものを求めている。が、パウロは「だれも誇ることがないため、救いは恵みによる」と言い、エレミヤは「誇るなら神を誇れ」と言った。つまり、自分が救われた罪びであることを知っておれば、その人は、誇るものを持つ必要はなく、赦す心を持ち、人を軽蔑することもない。
王の右の座は、歴史上、武勲を挙げた人が座る最高の席であり、パウロはここに僕らクリスチャンも座ると言う。イエスが僕らの席(十字架)に着かれたおかげで、僕らはこのイエスの席に着くことが出来る。つまり救いは席の交換によるのであり、川の中でおぼれている僕らを救うために、イエスはご自分の安全な場を離れ、危険を冒して来てくださったのだ。
僕らがイエスの席である神の右の座に着けるのは、イエスの武勲によるのであり、このイエスの自己犠牲の姿を見た時、僕らはもはや自己中心である必要はないと知るのである。不従順の子らであった僕らは、この御業を通して神の作品、良い行いの子らとなり、イエスは僕らの為すべき良い行いまでも、あらかじめ用意してくださっているのである。