アブラハムはアビメレクに対し、サラのことを、自分の妻なのに妹だと偽って「進呈する」という失態を演じます。これは以前犯したのと同じ失敗でした。なぜこんなことになったのか。それは恐れによるものでした。アビメレクは決して変な奴ではなかったのに、アブラハムは勝手な妄想を描いて、ありもしない恐れを自分で作り出したのです。 逆にアビメレクは全能の神、それも自分の幸せを考えてくださり、自分を信頼してくださる神との出会いを通して人格的に変えられ、アブラハムに対しても紳士的にふるまいます。それに対してアブラハムには、信仰の父としての立派さはみじんもない。でもこの「罪びと」アブラハムが、アビメレクの家のために祈るわけです。するとその祈りは聞かれ、アビメレクの家の女性たちの胎は開かれるのです。 罪を犯した相手のことでも祈れるのがクリスチャン。それは、僕たちを通して世界を祝福するのが神のご計画だからです。ダメな僕らを見ても、神はあきらめておられないということ。十字架にかかる前、主はペテロに「立ち直ったら兄弟たちを力づけよ」と、罪の赦しを差し出されました。僕らは自分にがっかりすることだらけです。でも神はその失敗も織り込み済みで、その後の、他者を執り成す者としての務めに、僕らを任じておられるのです。
カテゴリー