「子どもたちを私のところに連れてきなさい。子どものように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに入ることはできません」とイエスは言われました。子どものようになるとはどういうことなんでしょう。皆さんの「子ども」のイメージってどんなものですか。彼らは誰かに頼って生きていますよね。かわいいですね。お父さんを信頼しています。時に生意気。でも親がいないとダメ。ある意味弱肉強食。でも正義感が強い。一方で自己中心・・・要するにはちゃめちゃです。僕らは、もっとはちゃめはでいい!ということなのではないでしょうか。きれいなことを並べるのではなく、本当の心をぶつける。心配事も、悲しみも、失望も、怒りもそのまま持っていく、そんなはちゃめちゃな祈りを求めておられるのです。祈りは霊的鍛錬の場ではありません。ただお父さんの胸に飛び込むことです。 そして僕らは2階建ての1階に住んでいて、神は2階の存在と思ってしまっているところはないでしょうか。だから祈らないのです。愛や奇跡は祈っても生活のことは祈らない。それは、神は2階にいて僕らの小さなことなんてケアしてくれないと思ってしまっているからです。が、それは単なる不信仰です。神はすべてを支配される良いお方という信仰がなくなってしまっている。それは人生にはいいことばかりが起こるわけじゃないという現実があるからですが、このガラスの天井を突き破る唯一の方法が祈りなんです。「私の名によって求めるものは、父がそれを与えてくださいます」と、イエスは何度も私たちに約束しておられます。求めて、それをゆだねる。Pray and surrender just like a child! 整理もつかないはちゃめちゃな祈りを、聖霊は喜んでとりなし、天の父なる神様は、そんなあなたの頭に手を置いて、目を細めてなぜてくださいます。
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職場にあって、どうしてこんなことを要求されるのかと悩むことって、誰にもあると思います。こんなことに悩んでいること自体が、クリスチャンとしておかしいんじゃないかと、ダブルで悩むクリスチャンも多いと聞きます。でも、すべてにシャープな答えを持っているのがクリスチャンではないのです。人が悩むことにはクリスチャンでも悩みます。それを祈りに持っていけること、すべてが祈りにつながること・・・これがクリスチャンなのです。そして不当な要求はダメなことばかりではありません。それがあって初めて破れる殻というものもあるからです。不当な要求を出さざるを得ない上司の苦しみに思いをはせるというのも、クリスチャンならではの所作です。 ちっちゃなことに悩んでいる自分を、主は軽蔑されるのではないかという思いも間違っています。ローマ8:23-24「私たちはからだは贖われることを待ち望みながら心の中でうめいています。私たちはこの望みとともに救われたのです。」答えを出せずにうめく、これがクリスチャンです。ダビデのように素直に自分の弱さを主にぶつけ、結果的に力強い人生を歩ませて頂きたいものです。
- タグ Ⅰペテロ
僕らは、神様に何かを求める時、正しい求め方をしているでしょうか。一番悪いのが求めない事。でも、もう一つの間違いは、求めて、そのあと明け渡さないことです。イエスは十字架を前に「この杯を取り除いてください」と祈られましたが、同時に「神のみこころが為されえるように」とも祈りました。Pray and surrender. とにかく結果を委ねることです。僕らは求めてダメだった時のことを心配して、祈りをすぐに取り下げてしまうからです。失敗、恥、失望を恐れるんですね。でもそれでは、「イエスの言っていることが分からない」と言って、イエスの元を去ってしまった多くの弟子たちと、僕たちは何ら変わらないことになります。 そして僕たちは、イエスを理解するのに、肉を持って理解しようとしているでしょうか、それとも霊を持って理解しているでしょうか。「肉によって生まれた者は肉、御霊によって生まれた者は霊」(ヨハネ3:6)とあります。また「文字は人を殺し、御霊は生かす」(Ⅱコリント3:6)ともあります。肉、文字と言う言葉があらわしているのが、理性、知識、学問、研究で、これらはあくまで頭で考えるもの、形有るものです。でも御霊の助けなしでは、イエスを理解することはできないし、人を生かすのはあくまで聖霊、holy spiritです。神は、私たちに語りたくて語りたくて仕方がないのだと教えてくれた友人がいます。それはすべて聖霊の働きです。あなたの人生を豊かにする聖霊の働きを、その語り掛けを、今こそ求めようではありませんか。
- タグ ヨハネの福音書
ザアカイは取税人という、すべてのユダヤ人から嫌われる仕事をし、大の嫌われ者で通っていました。イエスはいちじく桑の木の下から、その木の上にいるザアカイに目を向けて近づかれます。が、イエスは決して、ザアカイが友達もなく、不遇な状態にあるのを見て、それを憐れんで声をかけたのではありません。かえってイエスは、ザアカイが本来持っている彼の中にある最高の部分をみて、それを引き出してあげよう、生かしてあげようという思いで彼に声をかけ、友達になったのです。「この人もアブラハムの子なのだから」と。そして「人が自分の友のためにいのちを捨てる、これよりも大きな愛はない。あなたがたはわたしの友だ。」(ヨハネ15:13,14) と言い、やがてイエスはこのザアカイのためにいのちを捨てます。果たしてザアカイは、このイエスの友情と愛に応えるべく、自分の生き方を変えるのです。 私たちも、人がどんなあわれな状態にあったとしても、その人のあわれさ故に、それを憐れんで友となるのではなく、その人の最高の部分を見、そこに共感し、それを生かすような友となりたいと思います。そのためには、まず私たちは、文字通り捨て身の愛を示してくださった友なるイエスを知り、また私たちのベストを常に見ていて下さる主イエスの目線を知ることがその第一歩。その後で私たちも、イエスが向けてくださった同じ目線を、友にも向けることができるのです。
- タグ ルカの福音書
あなたは、ご自分の仕事場で、つい真剣になりすぎて人とあらぬ摩擦を起こし、それ故に互いが傷ついてしまったということはないですか?この期待に応えたい!あの人を満足させたい!これまで築いた評価を落としたくない!といつもどこか必死になっていませんか。誰にでもそんな部分はあると思いますし、僕自身が、当時はそんな思いの連続でした。その結果、疲れ果てて、余計にヘマをするという負のスパイラルに陥るのです。イエスはそんな僕らに1つの提案をします。仕事場に入った時、「わたしはイエスへの責任を果たすためにここにいるんだ」と思いなさいと。自分の願いを達成することに固執するのではなく、イエスの願う方法に人生のかじを切ってみるのです。そうなると、これまで味わったことのない心のゆとり、余白、フリースペースが生まれるのです。 イエスはきよい天の御国を離れ、わざわざこの薄汚れた世界のただ中に住むためにお出で下さいました。だからイエスは、あなたが、時にどろどろになりへとへとになる仕事の世界に、深い関心を持っておられます。そして、「わたしにつながりなさい。わたしもあなたにつながります」と言われます。日常生活の中でイエスにつながりましょう。聖餐式は、そのための貴重な手段です。それは主の恵みを五感で味わうすばらしいチャンスであり、あなたの内に生きる主イエスが、人を見ることをやめる力を、あなたに与えてくれることでしょう。
- タグ ヨハネの福音書
放蕩息子は父を傷つけ、父の財産を湯水のように使い果たしました。が、父はその悔い改めた弟息子を受け入れました。ところで兄息子は父の何を求めていたのでしょうか。実は兄息子も弟と同じく、父自身を求めていたわけではなく、父の財産が目当てでした。だからこそ、それを無駄遣いした弟が赦せず、父の心を無視して、弟を受け入れた父親のことをなじったわけです。兄の問題は自己義認でした。「俺はちゃんとやっている、だから父親も俺の言うことを聞くべきだ」と。兄も弟も、結局は自分たちの欲求を満たすために父を利用していたにすぎませんでした。父を喜ばせるために父にお仕えするという気持ちは、両方とも持っていなかったわけです。32節でこのお話は突然終了しますが、本来兄はここでどういう行動をとるべきだったのでしょう。本来兄は弟を捜しに行くべきだったのではないでしょうか。それが父を一番喜ばせることだからです。そして、実際それをなされたのがイエスキリストでした。主は大いなる犠牲を払って、弟さがしの旅に出て来てくださいました。ですから私たちも、先に救われた者として、今もさまよう弟をさがしに出て行こうじゃありませんか。父は弟たちの帰りを待って、今日も戸口に立っておられるのですから。
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つぶやきってどんな時に出て来るか知っていますか?不平不満があって、それが内にこもっている時です。どうしてそれが祈りに発展しないのか?それは全てをつかさどる神を信じていないからです。そんなつぶやき癖のある私たちにイエスは3つのことを教えてくださいました。 1つは、信仰は100%神の恵みだということ。牧師と言えども、神を差し置いて介入できることではないし、ましてや知識の勝負でもありません。その神の一方的な恵みにまず感謝したいと思います。 2つめに、救いは今現在起こっていること。信じたとたん、世のいのちと、永遠のいのちの両方が私たちには与えられます。そしてこのダブルの恵みが、わたしたちクリスチャンの力の源なのです。 3つめに、イエスは小さくなられた神です。私たちが頂いている大きなめぐみを、世にお返ししていきましょう。もっとも小さな者にしたのはわたしにしたのであると、イエスは言われました。与えられた恵みを流し出すところに、本当の喜びがあるのです。このことを日本の若者に是非とも伝えていきたいと思います。
- タグ ヨハネの福音書
あなたは「広い門からではなく、狭い門から入りなさい」と言われたらどうですか?きよい生活をして、いい人になりなさいと言われているような気がしますか。でも、イエスのこの言葉はそういう意味ではありません。「狭い門」とは、ただイエスを信じる信仰だけで通過できる、全ての人に開かれた救いへの道。それを見つけなさいという意味です。だから本当は「広く開かれた門」なのです。それを「狭い」と呼ぶのは、それを発見する人が少ないからです。イエスがいのちをかけて開いてくださっためぐみを知り、感謝する時、あなたはすでにその狭い門の内側にいるのです。でも逆に、それに気づかずやみくもに突き進む道は滅びへの道です。「そのままでいいよ」という甘い言葉は、耳に心地よくても愛から出てはいません。イエスを十字架にかけ、そのイエスを信じる信仰によってのみ与ることのできる永遠のいのちに進みなさいと、わたしはそのために愛するひとり子をあなたに贈ったと、天の父は今も、涙ながらに語っておられます。
- タグ ルカの福音書
あなたは「自分を捨て、自分の十字架を負う」ということの意味を深く考えたことがありますか。それは、自分に徹すること。人まね人生を送らないことです。あの人のようになりたいと、理想を持ち、お手本にして努力することは良いことです。「学ぶ」という言葉は、もともと「真似ぶ」から来ているからです。でも、そのまま、自分に対する神のspecialなご計画を無視して、人の評価する自分、ああなりたい自分を目指すのは、人まね人生。それを捨て、自分に与えられた賜物に神のご計画を読み取り、そこに徹する人生にこそが「自分を捨て、自分の十字架を負う」人生なんですね。山上の説教の世界は、天の御国が舞台です。が、「自分の十字架」への招きは、そのまま天の御国への招きでもあります。まずこれに応答し、そこにある私たちの将来に約束された多くの幸い(たいやきの中のあんこ!)を楽しみましょう。
- タグ マタイの福音書
聖書には多くの体の不自由な人が出て来ます。が、それらはみな僕らの霊的な不自由さを語っているのです。目が見えない人は、霊的なことも神の姿も見えない僕らのこと。耳が聞こえないのは、神のみ声が聞き取れないこと。また、しゃべることのできない人とは、祈れない僕らです。でもこんな不自由さを、イエスは放っておかれません。手の萎えた人に対して、「立って真ん中に出て来なさい。手を伸ばしなさい」と言われたイエスは、私たちに対しても、「私はあなたを癒したい。だから真ん中に出て来なさい。」と声をかけてくださっています。イエスのこの愛の声かけ、チャレンジに応答して前に進み出ようじゃありませんか。そして、イエスから新しいいのちを頂こうではありませんか。 あなたは一人ではない。 天地万物の造り主、全知全能のイエスはあなたのことを真剣に思って下さっています。ここにあなたの希望があり、あなたの生きていく力があります。
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