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いのちのパンで僕らは一人も滅びない
ヨハネ6:34-40

教会って、みんなニコニコしていませんか。その理由の一つが、罪の重荷を、自分で担ぐのをやめて、床に降ろした人たちの集まりだからということは、ご存知でしょうか。すごく単純な理屈です。自分の罪は、自分で担ぎ続けないとだめだと、これは俺の責任で、どこまでも抱っこしていくぞ!と、皆どこかで思ってしまっているのです。でもイエスは、それを引き受けるためにこの世に来られ、十字架に掛かってくださいました。それは、この世のすべての人たちが、一人残らず救われて、永遠のいのちを得るためだと聖書は言っています。条件なし、区別なし、これが新約の世界です。 この一方的な恵みをただ受けるだけでなく、イエスに自分から近づきイエスの差し出すいのちのパンを頂く時、あなたの人生の旅がななつ星の電車旅行に変わります。このパンを日々食することが信仰生活、それ以外にありません。

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朽ちない食物のために働く
ヨハネ6:22-35

僕らは人生を通して、何かを獲得しようと頑張ります。でもそれらは、獲得して満足して終わりではなく、達成した瞬間から新たな欲求が起こり、さらにその上を目指すというエンドレスな戦いの始まりであり、その欲求が本当の意味で満たされることはありません。が、聖書は「本当の満足」に至る食物があると言います。それは腹の中にとどまって、僕たちを満足させ続けてくれる食べ物だと。人生はよくマラソンのようだと言われます。どうせ走るなら、そのような永遠に朽ちない食物のために走りたいですが、実はそのスタートが永遠のいのちなるイエスキリストを頂くことにあるのです。イエスこそが「まことのパン」だからです。 人づきあいの要諦はその人を信頼することだとよく言われます。イエスへの信頼、それを信仰と呼びますが、それを手にしたとき、あなたの人生にも、その信頼・信仰に応えてイエスの祝福が、満ち満ちることでしょう。

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わが目的地へ
ヨハネ6:16-21

皆さんは、ご自分の人生でとんでもない嵐に遭遇し、「神様なんでですか?」と問うたことは無いですか?僕はあります。もう40年も前のことですが、神のガンガンに突っかかりました。そして、弟子たちがガリラヤ湖で遭遇した嵐も、まさにそんな状況でした。「神がいるなら、どうしてこんなことが起こるの?」と。でもそれは、彼らが真に頼るべきお方は誰なのかを知るために必要な経験であり、訓練でした。自然も、嵐も、すべて神の被造物。始まりがあって終わりがある。しかし、それを造られた神は永遠なるお方。なおかつご自分の作ったすべての被造物を、今も完全にコントロールしておられるお方なのです。そのことをとことん理解したうえで、彼らは目的地カペナウムに到着し、そこで神の口の語る神のことばに、、ご自身がいのちのパンであるという説教に、真剣に耳を傾けることができたのです。今主は、あなたをfinal destinationに運ぶ前に、それにふさわしく整えようとしておられるのではないでしょうか。

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いのちのパンである方
ヨハネ6:1-15

5000人のお腹がいっぱいになるだけの大量のパンを、イエスが生み出されたお話がここでは述べられています。有名な奇跡です。この御業を通してイエスが僕らに伝えたかったことは、次の3点。(1)決してイエス単独のわざではなかったこと。5つのパンと2匹の魚を持ってきた少年、それをイエスに紹介した弟子のアンデレ、そして増えたパンを群衆に配ってまわった12弟子。彼らの協力なしには起こり得なかったのです。奇跡は人の手を通してなされるのです。(2)「一つも無駄になさらない」方がイエスだということ。これが「一人も滅びないで」(ヨハネ3:16)にも通じるイエスの基本姿勢であり、その熱心によってイエスは十字架に掛かってくださったのです。(3)大麦は本来家畜のえさ。この大麦のパンという、貧しさの象徴のようなものが、イエスの手を通る時、とんでもない奇跡のために用いられるということ。ですから私たちの賜物を、気後れすることなくどんどん提供し、神の御業のために大いに使って頂こうではありませんか。

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お金との向き合い方
マルコ10:17-31

今の日本の問題は、お金持ちとその助けを必要とする人たちの間に深い溝ができてしまったことにあり、昨今コロナ禍により、そういった貧富の差はますます拡大しています。かつ今の世にはそれを是正するシステムが存在しないのです。キリスト教会は、3世紀の「キュプリアヌスの疫病」の時から、ローマ帝国が隔離の名のもとに遺棄してきた病人を看護し、丁重に埋葬することで感染率を押し下げるなど、どの時代にあっても社会のシステムが機能しない隙間を埋めることで、異教徒たちの評価を勝ち取って来ました。またマザーテレサの働きが文化や宗教を超えてあそこまで評価されたのも、貧しい人と豊かな人の出会いの場を提供できたからでした。では今、日本の教会に期待されていることは何か。それは、豊かな人とその助けを必要とする人を結び付けるコミュニティーを提供すること。そこにおいては、イエスの思いに沿ったお金の使い方をすることで、豊かな人がこれまで受けて来たお金の呪縛から解放され、「受けるより与える方が幸い」の「幸い」を味わうことができるのです。そしてその時あなたは、お金、人の評価、成功した人生など諸々の「偶像」から解放され、本来のあなたに、神の子のアイデンティティーに、生きることができるようになるのです。

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ここにいのちがある
ヨハネ5:31-47、使徒19:1-7

コロナや自然災害は、私たちのすべての計画に見直しを迫ります。そうでなくても、思うように進まないのが人生です。そんな時私たちは、自分の能力の足りなさや、めぐりあわせの悪さや、降ってわいた災難にがっくり来て、ときには自暴自棄になりかけることさえあります。でも、もともと私たちキリストとともに歩む者の人生に、完璧も、完成も、失敗も存在しないのです。すべては中途半端で終わる、これが人生。でもそれを私たちの想像を超えた形で仕上げてくださる方がいます。それがイエスキリストです。イエスにつながり、そこからいのちを頂き、この方のベクトルに沿って歩む限り、この方が、私たちの小さな小さな努力を、おどろくべき完成品に作り変えてくださるのです。でもそのために必要なことが2つ。それは「あなたは愛されている」この力強い神のことばを、あなたの存在に隅々にまで響き渡らせること。そして、 ぶどうの枝がぶどうの木につながるように、 なにがなんでもイエスにつながり続けること。さすれば必ずや、そこから得られたたわわな実が、そしてそれから作られた極上のぶどう酒が、あなたの人生の宴席を豊かに潤すことでしょう。

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東京のど真ん中に立つ教会
エレミヤ29:4-7、創世記11:3-4、黙示録21:2-3

イスラエルの民は、自らの不信仰のゆえにバビロン捕囚に遭いました。が、それは神の世界宣教の一環でした。それゆえ彼らは、引いて行かれた敵国の都バビロンの繁栄を祈るようにと神に求められました。実は、東京都心に置かれている僕たちについても、同じくこの東京のために祈ることを神は期待しておられます。それは、この東京の繁栄が自らの繁栄でもあるからです(繁栄は、ヘブル語でシャローム)。そのためには宣教のために都心に導かれた「捕囚の民」である我々が、まず神に癒されることが必要で、そのためには赦し赦され愛し愛される場としてのコミュニティーが不可欠であり、そのためにこのTCCが東京に立てられました。 ところで僕らは仕事に全身全霊を注ぎます。それ自体は良い事です。が、その成果や組織を通してアイデンティーを確立しようとするとき、仕事や組織が偶像化し、結局ひたすらそれを通して「名をあげる」だけの空しい人生となります。そこでは優越感が支配し、その人は結局「良好な人間関係と栄光ある人生」の両方を手にすることはできません。この両方を獲得するために必要なのが、神との確かな関係、真のシャロームなのです。さて、あなたの人生はどちらを向いているでしょうか。

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一人を心からあわれむ
ルカ10:25-37

メル・ギブソン監督の映画「ハクソーリッジ」のデスモンド・ドスは、衛生兵として米軍に入隊して以来、「汝殺すなかれ」の戒めに従って銃を持たない主義を貫いたことで、臆病者として軍隊内部で散々いじめを受けます。が、その後沖縄に送られ、いきなり起こった激烈な地上戦では、75名の負傷兵を救出するという大活躍をします。 たったひとりで 、祈りだけを武器に。彼のその姿はまさに「良きサマリア人」でした。が、彼らに共通するのは、ともにあわれみの心に突き動かされたということです。 我々人間は、神によって神のかたちとして造られ、全被造物の支配を委ねられています。が、この「神の国」「神の支配」が実現するためには、我々が、自分の中に頂いた神のかたちから発するあわれみの心を、最大限に発揮する必要があります。つまり「隣人」に対して「彼らと同じことをする」こと、その一つ一つが神の国を構成するシナプス細胞なのですね。ところで、あなたにとっての「隣人」とは誰でしょう。また「同じことをする」とは? まるで戦場のような今の世の中ですが、そのことを通して、共に神の国を実現させていこうじゃありませんか。

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驚きつつ、いのちに生きる
ヨハネ5:19-30

「まことに、まことに、あなたがたに言います」という枕詞に続いて、イエスは常に大切なことを語られます。1つ目は「驚け」、2つ目は「生きよ」と。ところで、あなたの信仰に驚きはありますか?もしないとしたらイエスの本質に触れていないということかもしれません。だって、イエスはその日(おわりの日)私たちの前で感嘆の的になられる(Ⅱテサロニケ1:10)とあるからです。このイエスを見つけるまで、僕たちは求め続けないとダメだということです。「求めなさい、そうすれば与えられます。捜しなさい、そうすれば見出します」(マタイ7:7) 私たちは、日本の政治をあきらめてしまっているところはないでしょうか。確かにがっくりさせられることの連続です。が、福音的クリスチャンの石破さんが次期総裁選でのポスト安倍の有力候補の一人と言われている昨今、このことのために祈るのはごく自然なことだと思います。イエスキリストは私たちの理解力、想像力をはるかに超えたお方。かつ神は人を通して奇跡を為されます。そして驚き続けることを期待しておられます。ならば近い将来、主のなされるサプライスを期待し祈り続け、そして最後に「やっぱり主だ!」と、感嘆し、驚きあきれる者となろうじゃありませんか。イエスは、干からびた骨(エゼキエル37:11)のような日本にいのちを与え、生きるものとしてくださるお方です。

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今も働かれるイエスキリスト
ヨハネ5:1-18

「withコロナ」時代の突然の到来に、戸惑いを覚えている方が実に多くおられます。感染を免れ、健康も経済も守られ、うれしい事づくめのはずなのになぜか喜べない・・・。ベテスダの池で癒しを経験したその男性も、同じ思いだったに違いありません。すばらしい事の始まりも時として戸惑いの方が多いもの。でも彼がすごかったのは、神に感謝するために宮に戻って来たことでした。そこでイエスと会い、自分の癒しがイエスによるものであったことを知り、その日彼は、イエスの証し人としての新しい人生をスタートします。 僕たちは多くの「めぐみ」を頂きながら、それを貰いっぱなしにしていないでしょうか。彼はまず感謝するために宮に帰りました。イエスは本来僕らの応答を期待して、めぐみをお与えになるお方です。ですからまず頂いた「めぐみ」を感謝し、みことばに帰りましょう。そこから「めぐみ」の意味を知ることができ、そこから新たな使命が与えられるからです。このコロナ時代にしかできない、あなただけに準備された使命があります。 それを教えて頂き、 今も働かれるイエスキリストと共に、目の前のnew worldに向かって歩き始めませんか。