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誘惑に負けない人生
創世記39:5-23

ヨセフは幸運な人となったと聖書にあります。それは神が共におられたからです。そして、それ故に、あんな過酷な人生を歩んだにもかかわらず、彼は過去に縛られることなく、今を一生懸命生きることができました。そして異邦人ポティファルまでが、彼を見て、神が彼を成功させていることを見たと聖書は言うのです。なんとみごとな証しでしょうか。

あなたは使命をもって生きているでしょうか。使命の伴った人生とは、神の愛と期待を知り、それに応答して生きる人生です。そしてその使命感が誘惑に対する抵抗力を作り上げてくれます。ですから僕たちも、もっと神と近くにあって、どんどん祈り、会話を増やし、神から頂く使命を確かなものにしていきたいと思います。

「神を愛し、人を愛する愛」をもし僕らが持つなら、その愛は僕らを誘惑から守ります。都市伝道のために世界中を旅するティムケラーに「これまで都市で誘惑に負けそうになったことはなかったですか」と尋ねたら、彼は「福音があまりに魅力的なので、他からの誘惑を受けたことは一度もありません」と答えたそうです。まさに福音にぞっこんの人生だったのです。

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都市のビジョン
使徒8:1-8

2000年前、使徒たちは散らされた後、まず大都市に向かい、その後のパウロも一貫して都市伝道を行いました。それは都市で起こったことがそのまま周辺の地域に伝わるからです。「全世界に出て行って」というマルコの大宣教命令を達成するために必要なことは、まず都市を福音で満たすこと。これこそがTCCが今都心で求められている働きなのです。

都会では、この人だけは可能性なしと考えてしまうような人によく出くわしますが、神の子イエスは「言葉は人となって」と、まさに境界線を越えて僕らと同じ人間となり、十字架にかかるほどに愛してくれました。だから「自分で線を引くな」とイエスは言われます。イエスの福音は、僕らを謙遜にし、次の「境界線越え」も僕らにもチャレンジして来ます。

「あなたも変えられたじゃないか。それも善行や徳によってではなく、ただ恵みで救われたことを忘れたのか。だから出て行きなさい」と主は語られます。救われたのは救うため。TCCが、その主の命に応えて、世界宣教の第一歩として、都心の僕らの持ち場へと、神の働き場へと、勇気をもって出て行くことを願います。

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救いへの導き
(石川礼宣教師)
使徒8:26-40

1、主の導き:救いは完全に主の導きによってなされます。ピリポはサマリアで順調に宣教の働きをしていましたが、主の導きに従いました。主は私たちのことも日々導かれており、主の示されたところへすなおに向かうよう求めています。

2、導き手として人を用いられる:主はピリポに、エチオピア人の宦官の馬車と一緒に行くようにと言われました。主は私たち人間を、主の導き手という重要な働きに召されます。 声をかけられた宦官は、イザヤ書43章についてピリポに尋ねます。異邦人の彼には、ふさわしい導き手がいなければ聖書の示していることがわかりませんでした。そこでピリポは成就されたばかりのイエスの福音を語ります。イエスキリストは、ユダヤ人だけでなくすべての人に救いをもたらすためにこられたのです。

3、救いの喜び:彼はためらうことなく受洗を決意します。はっきりと自分が救われたことを確信していたのです。バプテスマを受けて水から上がった彼は喜びに溢れていたでしょう。主の導きによって御言葉が心に届き、福音を心から受け入れることができたからです。

まとめ:救いのみわざは、このように主が先導し、人を通して行われます。御言葉はまことの神の言葉ですが、いつでも誰でも、その真理を容易に理解できるわけではありません。そんなとき、ふさわしい導き手がいて、主の助けがあって、私たちは御言葉の真理に到達することができるのです。 私たちは誰もが御言葉の導き手になることができます。主が言葉を導いてくださると確信していれば、ピリポのように、私たちも主の導きにしたがって語ることができます。私たち自身も、救いの喜びを味わったものとして喜びに突き動かされて福音を伝えていく者でありたいです。

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兄たちよ、弟をさがしに行きなさい
ルカ15:1-3,11-32

あなたは放蕩息子の兄タイプですか?それとも弟タイプですか?人は自分の幸せや満足を確保するために、2つの方法を取ると言われます。一つは誰にも文句をつけられないように道徳面をバッチリ守って社会に適応するやり方、もう一つは自分探しに徹する方法です。前者が兄、後者が弟と言えますが、これらは両方とも、出方は違っても、父を愛し父に喜ばれるために父に仕えるという生き方ではありません。 聖書は、そのどちらでもない第三の生き方を描きます。それは父の笑顔を喜びとし、その父から遣わされる生き方です。イエスはもともと無限であられたのに、その無限を脱ぎ捨て、わざわざ貧しい有限の衣に着替えて、いのちをかけて苦い杯を飲み干し、本来僕らが支払うべきすべての支払いを為してくださって、僕らが帰って安心して住むことができる様、その場所を用意してくださいました。 僕らは、以前は自分のために貯めても貯めても、結局は全部置いて行くというのろいの世界に居ましたが、そこから解放されたのです。それは罪も、のろわれる理由も何もなかった神の子イエスが、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と、僕らの代わりにそれを全部ひっかぶって下さり、あらゆるのろいと災いを払しょくして下さって、僕らのために本物のホームを用意してくださったからです。

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金こそすべて、というささやき
ルカ19:1-10

「金の亡者」という言葉だけを聞くと、漫画チックだし、自分がそうかもしれないとはだれも思いません。が、問題は自分がどれほど物欲や物質主義にまみれても、なかなかそれに気づかないこと。だからつい知らないうちにこの偶像に取り込まれ、これを愛し、信頼し、これに従う人生に突き進んでしまうのです。 新約には1/10献金の命令はありません。それは、イエスの十字架の恵みは、旧約時代とは比べ物にならないぐらいはっきりしているからです。僕らは旧約時代よりもっとわかりやすく、もっと多く恵みを与えられており、もっと「恵みの負債者」なのです。クリスチャンにとって1/10は最低の基準。なぜならイエスはご自分の血といのちの1/10をお捧げになったのではなく、すべてを献げられたからです。 自分の中の偶像に気づいて「下がれ、サタン」と命じれば、すぐに逃げていきます。grasp and releaseするのです。しかしそれはまたすぐに戻って来る。従いこれから永続的に離れるには、僕らのために貧しくなられたイエスキリストに、人生を乗っ取って頂くしか方法はありません。この方によって僕たちは、貧しい者から富む者へと変えて頂けたのです。

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祝福を受けるコツ
創世記32:21-32

あなたはどんな祈りを神にささげていますか?綺麗なことばを並べる「よそ行きの祈り」になってしまっていないですか?そうではなく、本心をぶつける祈りこそが大切と、ヤコブの格闘は語ります。詩篇のダビデのように、偽りのないことばで祈る。素の自分で、弱さをオープンにして、恐れがあるならそれを伝え、神のあわれみを乞う。まるでレスリングのようなつかみ合いの格闘、そんな祈りこそが、僕らが神の祝福を受けるコツなのです。 さらに祈りには二種類あり、一つは人格的な祈りで、もう一つが非人格的な祈りです。後者の「人格的でない祈り」は、祈りが聞かれたかどうかの結果だけを見ます。ところが大切なのは結果ではなく、そこに至るプロセス。神は祈りを通して僕らを高め、祈りそのものを変え、元々求めていた以上のバージョンアップした内容にしてそれをかなえて下さいます。そしてそのプロセスを通して、神は僕らの中の神の形を回復して行ってくださるのです。 神は僕らをとことん愛しておられます。その神を知り、楽しむことができた時、僕らの世界は一変します。すべてが愛の対象となって来るのです。自分がどれほど愛されているかを知った時、これまでは恐れと憎しみの対象でしかなかった人まで、自分と同じく祝福を共有すべき人なんだと知るようになるのです。

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将来と希望を与える計画~祈りによる成熟
(北野献慈師)
エレミヤ29:10-14

Ⅰ.あなたを愛する神の計画 (1)あなたを顧み、慈しむ神(エレミヤ29:11,12)「まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。』」(29:10) (2)平安を与える神(29:11) (3)将来と希望を与える神「家を建てて住み、果樹園を造ってその実を食べよ。」(29:5) Ⅱ.あなたを求める神の計画 (1)あなたに町の平安の祈りを求める神「わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。」(29:7) (2)あなたの祈りを求める神「あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。」(29:12)

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行って実を結べ
ヨハネ15:7-17

「王の友」とは、王と、家族や家臣以上の関係を持つ特権階級の呼び名で、彼らはどかどかといつ王の寝室に入って来てもよい人たちでした。当時のこの「友」の意味するところを知った時、「私はあなたを友と呼ぶ」と言われたイエスの言葉の重みが初めて理解でき、「だからわたしはあなたのために死ぬのだ」と言われたイエスの愛と覚悟が伝わって来ます。この信じられないような宝物を伝えるのが伝道です。 でも伝道は難しく、かつ失敗したら大切な友人を失ってしまうかもしれないリスクをはらみます。じゃあどうすればいいのか。その答えとして、イエスは、「僕らが愛し合うなら、それを見て僕らがイエスの弟子であることを世が認める」と言われました。世の愛が冷えている今だからこそ、僕らが互いを愛する熱気を持つなら、そこには上昇気流が生じ、祝福の対流が起こります。そしてそれこそが最大の伝道ツールなのです。 あなたの仕事に喜びはあるでしょうか。それは独りよがりの自己実現的な喜び、あるいは神と人に仕えるところから来る喜びのいずれでしょう。イエスキリストは、三位一体の中で、自由と、愛と、満たしを互いに与え合う関係を喜びつつ、永遠を生きて来られました。だからこの世においても、それと同じ関係を僕らとの間に造られたし、また僕らにも同じことを望まれるのです。そして僕らの真の永続的な喜びもそこにあるのです。

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あなたは救われている
ルカ24:1-12

僕らは自分では処理できない負の思い出、消したくても消せない罪の記憶を抱えて生きています。が、神が僕らを捕えてくださったという思い出、あの一番つらいどうしようのない場面にも神が共にいて下さり、すべてが神の愛の中にあったという神の思い出がそれらと二重写しになる時、ペテロたちが走ったように、これまで誰もが避けて来た「墓」に向かって走ることができ、墓の向こうまで走り抜けることができるのです。 「あなたは今日私と一緒にパラダイスに居ます」という、十字架の強盗にかけられたイエスの言葉は、世の常識からは逸脱しています。彼は教会に来て罪を言い表したわけでもなく、ただ「自分のことを思い出してくれ」と、死ぬ間際にイエスに叫んだだけだったからです。でもこれが、すべての人を救うことのできるキリスト教会の救いなんです。僕らの叫びに対して叫び返してくださる、これがイエスの救いです。 ようこそ教会へ。そしてようこそ恵みの中へ。弱い僕たち、取り消すことのできない過去を持ち、過ちを抱えてきた僕たちの為に教会は用意されており、その弱さを全部ぶつけることができるのが十字架です。イエスの復活は、語られたすべてが真実であることの証しです。かつ、いやなことを忘れようとするのではなく、イエスの復活を軸にそれらをリアルに思い返すところに、僕らの祝福の人生があります。ハッピーイースター!主の復活を感謝します。

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まことのぶどうの木と枝
ヨハネ15:1-6

神は僕らに与えたくて与えたくて仕方がなくておられます。いや実はすでに与えられていて、だから、「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:8)と僕らに語るのです。でも、僕らはなぜか求めない。つまり、目の前に、神の用意された魚いっぱいのいけすがあるにも関わらず、そこには糸を垂らさないで、わざわざどこかの水たまりや、プールや風呂桶まで出かけて行って糸を垂らすのです。だから釣れないんです。 「イエスを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15:5)と言われると、僕らはつい反発します。ところが、「喜んでいる者たちとともに喜び、悲しんでいる者たちとともに悲しむ」という基本的な愛すら示しえないのが僕らなのです。なぜならチームの勝利より、自分の評価の方が僕らにとってはよっぽど大事であって、チームメートが活躍した時にその本人と同じだけ喜ぶという愛を、僕らは持ち合わせていないのです。 聖書には、「神は僕たちがもっと多く実を結ぶために刈込をなさる」ともあります(ヨハネ15:2)。神の「刈り込み」は痛く、時には血が出ます。が、パウロが3度主に願いながらも、「サタンの使い」が彼を去らなかったのは正に「刈り込み」であり、それを通して本来の頑張り屋ゆえの自力本願、ペラギウス主義から彼は解放されました。神の恵みに生きる本物の使徒パウロはここから始まったのです。僕らも、神の「刈り込み」にある御心に気づいて、それを重んじたいものです。