ヤコブは長男の権利を兄から奪い取り、父の祝福まで横取りしたことで、兄に殺意を抱かれ、這う這うの体で一人ラバンの家に逃れます。その旅先での最初の夜、彼は神と出会うのです。どん底での神との遭遇。それは神自らが、情けない一人ぼっちのヤコブに寄り添って下さり、お前はわたしの祝福から漏れていないということを彼に告げるためでした。 どん底にいる時、僕らは「なぜ」と神に問います。が、答はありません。でもそこに、神の愛といつくしみのまなざしがあることを覚えたいと思います。イエスも「どうしてですか」と問いました。「わが神、わが神、どうしてお見捨てになったのですか」と。その答えは無かったのです。でも「御心のままに」と進んで行かれ、父の無言のまなざしの中でイエスはよみがえりました。 ヤコブにとって、これまではおじいちゃんとお父ちゃんの神でした。礼拝も一緒に出た。でも、この時初めて、神にじかに会えたのです。神を知り、神が自分の神になったのです。「なんと恐れ多いことだ。ここは神の家、天の門だ」という驚きこそが、僕らの礼拝です。はしごを降りて来られ、日々僕らに話しかけ、共に生きることを喜び、僕らを世界の祝福の基としてくださる神、このイエスキリストのもとに居続ける者でありたいと思います。
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イエスの王の立場を、ピラトは理解できませんでした。血を流す王?どうして?訳が分からなかったのです。軍馬にまたがる宮のきよめのリーダー、ユダ・マカバイオスのような王をみんな望んでいたのに、実際現れたイエスはロバに乗っていたからです。パリサイ人は言うに及ばず、それを見る弟子たちも、そこにいたラザロの復活の証人達も、その噂を聞いた人たちにも分かりませんでした。 しかし「人の子が栄光を受ける時が来た」(ヨハネ12:23)との、以前イエスの語られた言葉を思い出した時、分かったのです。それはローマへの勝利ではなかったことを。「ホサナ(万歳)、恐れるな」とは、死と罪に対する勝利、復活の勝利を歌っていたのです。 今年の受難週、この王を迎えるにあたってあなたは何を残しますか。へりくだりですか。忠誠ですか。それとも愛ですか。黙示録7章では、人々は完成された御国でイエスを迎えるとあります。そこでは何の隔たりもない、バリアフリーの礼拝が展開されています。先に礼拝する我々が、あとから来る人たちに祝福を残す、そのような受難週でありたいと思います。
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結婚など、親しい人間関係に回復がある時、僕たちは本当に慰められます。神はそんな身近な人間関係の回復を通して、この世を変えて行かれるのです。そこには恐れがあったり、自己評価の低さがあったり、いろんな妨げはありますが、それが一番リアルになるのが夫婦関係かもしれません。 全ての人間関係のスタートは夫婦関係です。それは人類の最初の、かつ最小の単位だから。祝福もここからやって来るし、崩壊もここからだということ。この事実はサタンも知っています。だからこそ巧妙に入ってこようとするんですよね。 「まず神の国とその義を第一に求めなさい」神を第一とする人を通して、世界は回復していくし、その一歩は僕たちの中に始まっているのではないでしょう。その一歩を停めない僕たちでありたいと思います。
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あなたのカレンダーは日曜スタートですか、それとも月曜スタートですか。クリスチャンは日曜スタートのものを用いる人が多いですが、それには理由があります。僕たち、戦う者たちには常におびえがあります。新しい週、職場の仲間の所に戻って行く、家庭に戻って行く、学校で新しい生活を始めるのに、勇気が出ない、言われた通りに愛せない。この不安に打ち勝つ平安は世の与えるものでなく、この敗北の連鎖を断ち切るのが日曜の礼拝なのです。 「平安があなたがたにあるように」この、復活の日にイエスの語られた言葉には、死を突き抜けたところから来る平安があります。これは、死に打ち勝ったイエスだけが口にできる言葉です。この平和の宣言を聞かなければ、僕たちは本当の意味で生きて行くことができないのです。だから僕らは日曜を重んじるし、この日曜が必要なのです。 もう一度思い出しましょう。イエスは、世の支配者サタンも、一切危害を加えることができなかったお方だということを。そして僕らも、まるでそのイエスと同じくサタンの支配などありえない者であるかのようにイエスの陰に立つことができる、そしてイエスの業にいそしむことができる。そのことが許されているとはなんという恵みでしょう。
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イエスが初臨でなされたことは、ヨベルの年の借金棒引き、完全な解放でした。内容は3つ。一つは経済的・霊的な貧しさに打ち砕かれた人たちが解放されること。第2が囚われ人の解放です。僕らは人の評価というものにどうしても捕われているからです。人に好かれようとすること自体がすでに幻想なのです。そして3つ目が罪の結果としての死からの解放。僕らは知らないうちに、死の奴隷状態にありますが、イエスは死の中に自ら飛び込み、復活の力をもって、死をいうものを内側から爆破するかのように征服し、よみがえられました。 イエスの2度目の来臨は栄光の再臨です。それは「起きよ。光を放て」と神が命じられた通りの、圧倒的な光の中での到来です。罪びとはその栄光の中に立って居れませんが、僕たち罪赦されきよめられたクリスチャンは、この再臨の主を直接拝することができ、その栄光の主と永遠の交わりを持つことができるのです。「あなたの太陽は沈むことがなく、あなたの月は陰ることがない」という、このキリストの到来を待ち望むのが僕たちなのです。
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イサクはアブラハムにとって、今や宝物中の宝物。でもそれが神以上になった時、イサク奉献の命令が神から下りました。それは、あなたの霊は死んでいないか、向くべき方向を向いているかという問いかけでした。これは僕らへの神の問いかけでもあります。僕らにとって一番大切なものが神以上の存在になっていないでしょうか。 大切なものをいったん手放し、神にお返しするなら、その時、その賜物は、神から託された本物の力を発揮するようになります。アブラハムが、それまで握りしめていたイサクをいったん手放すことによって、これまで死んだイサクだったのが、生きたイサク、いのちあるイサク、アブラハムの祝福を大胆に引き継ぐイサクとなって帰って来たのです。 試練の山には神の臨在があり、それを通して神は僕たちをもっと祝福したいと願っておられます。あなたに試練を告げる時、神は泣いておられます。でもそれ以上に、それを通してのあなたの更なる成長を望んでおられるのです。目の前の試練に挑みましょう。そして「主の山に備えあり」を体験させて頂こうではありませんか。
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イエスは、僕らはさらに大いなる業を為すと予告されました。それもご自分が世を離れることでそれが可能となると。その意味するところは、代わりに送られてくるもう一つの助け主である聖霊が、その時働き始めるということです。聖霊としてイエスが共におられるこの時代、僕たちは2000年前の弟子たちよりよっぽど確かにイエスに寄り添ってもらえるのです。 聖霊の原語はパラクレートス。これは「傍に呼び出される者」という受け身の名で、ここで呼び出されるのは、イエスであり聖霊です。なぜなら天の法廷で被告席に立つ僕らが能動的に助けを求めることはできないからです。しかし弁護人兼友人であるイエスの方からそばに来て下さり、僕らの無罪を堂々と立証してくれる・・・。何と心強いことでしょう。 さらにイエスという主人の名によって祈ることが僕らには許されています。主人の名義で仕事をするには、まず信頼されることが大事。その上で主人のみこころと性格を知り、その思いからはずれないよう最大限の注意を払うのです。元々主人の名を預けてもらえるのは、期待があるということ。ですから御心を徹底して求め、初めて僕らは主人の名代として世に遣わされていくことができるのです。
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ペテロの手紙は、サラのことを、神を恐れかしこむ良い生き方をしたと高く評価しています。が、実際のサラを見ると、神に望みを置くよりも人間的な解決を求めてハガルをアブラハムに与えたり、はたまたハガルが身ごもると今度は2人して自分を馬鹿にしているとハガルを追い出しにかかったりと、しっちゃかめっちゃかで僕らと大差ない人生です。 ところがサラはイサクを生み、「神は私に笑いを下さった」と言います。これは、神がアブラハムを通じて全人類を祝福するという神の壮大なご計画の最初の一歩に自分がかかわれたこと、また神の御心のど真ん中を歩いていることへの、喜びの表現でした。事実、サラのイサクを生むという働きがなければ、モーセも、ダビデも存在せず、イエスキリストのお働きもなかったわけです。 サラは神の国を建て上げる使命に生きたと言えます。同じく、僕らが密室で捧げる祈りも、人知れず流す涙も、神の国の見えない下地に用いられます。ビルの全容は主の再臨までわからないし、土台は更に見えませんが、罪や弱さゆえに神の計画からそれることはあっても、神の御手からこぼれ落ちることはないことを知って、僕たち信仰者は、自分に与えられた使命と、持ち場を通しての神の国建設に大胆に生きたいものです。
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エステル記は不思議な書物で、神とか、祈りとか、信仰とかの言葉はそこには出てこない。が、読み終わった時に、ああ神はすごいと思える書物。だから正典として聖書に含まれているのだ。 クセルクセス王と王妃ワシュティーの対立は、ペルシアが大帝国を築いた今から2500年前に起こった。ワシュティーは夫人たちのための宴会中に王に呼び出された。が、その命令を無視した。妻の美しさを客に見せようとした王の面子は、それで丸つぶれになったわけだ。 クセルクセスには、もともと女性の美に対する欲望があり、また傲慢さがあった。男性が女性を好きだという時、自分は表面だけを見て言っていないか自問してみる必要があるだろう。また女性も、相手が本当に中身を見て好きだと言ってくれているかどうかを見極めなければならない。 自分は人を愛したことは有るか、本当に謙遜か、神の言葉を本当に信じているのかと問い直したい。その悔い改めがなければ、いい学校、いい収入だけにこだわって一生が終わってしまうかもしれない。そうではなく、神と一対一になり、神に喜ばれる神の子となって歩みたい。
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英語でグッバイは、神があなたとともにいてくださるようにという意味です。それはあなたの中に神が住んでいるのだから、安心して行きなさいという祝福の言葉です。イエスは「心を騒がせるな」と言われました。僕らは心を騒がせることの多い世界に生きていますが、イエスがこの命令を出しておられるのだから、たとえ自分では不安を取り除けない状態にあっても、イエスはそれを取り除いてくださる。だからクリスチャンは大胆になれるのです。 イエスは良い牧者であり、私達はその羊です。また「わたしの羊はわたしの声を知っている」と言われました。だから僕たちは、「わたしが道だ」のイエスの声を聞き分けることができるのです。でも世にはもう一つの「我こそ道なり」の声があり、それは悪魔の発する声です。この声は大きいし、これに立ち向かうのに通り一遍の神学や小手先の業は通用しません。 僕らは毎週講壇から語られる主の御声を聞いており、そのことによって、僕らの霊の耳が鍛えられ、世にある2つの声の内のどちらが主の声で、またどちらがそのまねをしているだけの、実際は虚飾であり永遠の滅びに向かう声であるかを聞き分けることができる様になるのです。問題のない職場はありません。事の大小にかかわらず、イエスご自身の「わたしが道である」のことばをしっかりこころに留めたいと思います。
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