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ひとり子さえ惜しまずに
創世記22:1-18

イサクはアブラハムにとって、今や宝物中の宝物。でもそれが神以上になった時、イサク奉献の命令が神から下りました。それは、あなたの霊は死んでいないか、向くべき方向を向いているかという問いかけでした。これは僕らへの神の問いかけでもあります。僕らにとって一番大切なものが神以上の存在になっていないでしょうか。 大切なものをいったん手放し、神にお返しするなら、その時、その賜物は、神から託された本物の力を発揮するようになります。アブラハムが、それまで握りしめていたイサクをいったん手放すことによって、これまで死んだイサクだったのが、生きたイサク、いのちあるイサク、アブラハムの祝福を大胆に引き継ぐイサクとなって帰って来たのです。 試練の山には神の臨在があり、それを通して神は僕たちをもっと祝福したいと願っておられます。あなたに試練を告げる時、神は泣いておられます。でもそれ以上に、それを通してのあなたの更なる成長を望んでおられるのです。目の前の試練に挑みましょう。そして「主の山に備えあり」を体験させて頂こうではありませんか。

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もっと大きな業に向けての主の備え
ヨハネ14:15-21

イエスは、僕らはさらに大いなる業を為すと予告されました。それもご自分が世を離れることでそれが可能となると。その意味するところは、代わりに送られてくるもう一つの助け主である聖霊が、その時働き始めるということです。聖霊としてイエスが共におられるこの時代、僕たちは2000年前の弟子たちよりよっぽど確かにイエスに寄り添ってもらえるのです。 聖霊の原語はパラクレートス。これは「傍に呼び出される者」という受け身の名で、ここで呼び出されるのは、イエスであり聖霊です。なぜなら天の法廷で被告席に立つ僕らが能動的に助けを求めることはできないからです。しかし弁護人兼友人であるイエスの方からそばに来て下さり、僕らの無罪を堂々と立証してくれる・・・。何と心強いことでしょう。 さらにイエスという主人の名によって祈ることが僕らには許されています。主人の名義で仕事をするには、まず信頼されることが大事。その上で主人のみこころと性格を知り、その思いからはずれないよう最大限の注意を払うのです。元々主人の名を預けてもらえるのは、期待があるということ。ですから御心を徹底して求め、初めて僕らは主人の名代として世に遣わされていくことができるのです。

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イサクとイシュマエル
創世記21:1-13

ペテロの手紙は、サラのことを、神を恐れかしこむ良い生き方をしたと高く評価しています。が、実際のサラを見ると、神に望みを置くよりも人間的な解決を求めてハガルをアブラハムに与えたり、はたまたハガルが身ごもると今度は2人して自分を馬鹿にしているとハガルを追い出しにかかったりと、しっちゃかめっちゃかで僕らと大差ない人生です。 ところがサラはイサクを生み、「神は私に笑いを下さった」と言います。これは、神がアブラハムを通じて全人類を祝福するという神の壮大なご計画の最初の一歩に自分がかかわれたこと、また神の御心のど真ん中を歩いていることへの、喜びの表現でした。事実、サラのイサクを生むという働きがなければ、モーセも、ダビデも存在せず、イエスキリストのお働きもなかったわけです。 サラは神の国を建て上げる使命に生きたと言えます。同じく、僕らが密室で捧げる祈りも、人知れず流す涙も、神の国の見えない下地に用いられます。ビルの全容は主の再臨までわからないし、土台は更に見えませんが、罪や弱さゆえに神の計画からそれることはあっても、神の御手からこぼれ落ちることはないことを知って、僕たち信仰者は、自分に与えられた使命と、持ち場を通しての神の国建設に大胆に生きたいものです。

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王の面子と王妃のプライド
(坂野慧吉師)
エステル1:1-22

エステル記は不思議な書物で、神とか、祈りとか、信仰とかの言葉はそこには出てこない。が、読み終わった時に、ああ神はすごいと思える書物。だから正典として聖書に含まれているのだ。 クセルクセス王と王妃ワシュティーの対立は、ペルシアが大帝国を築いた今から2500年前に起こった。ワシュティーは夫人たちのための宴会中に王に呼び出された。が、その命令を無視した。妻の美しさを客に見せようとした王の面子は、それで丸つぶれになったわけだ。 クセルクセスには、もともと女性の美に対する欲望があり、また傲慢さがあった。男性が女性を好きだという時、自分は表面だけを見て言っていないか自問してみる必要があるだろう。また女性も、相手が本当に中身を見て好きだと言ってくれているかどうかを見極めなければならない。 自分は人を愛したことは有るか、本当に謙遜か、神の言葉を本当に信じているのかと問い直したい。その悔い改めがなければ、いい学校、いい収入だけにこだわって一生が終わってしまうかもしれない。そうではなく、神と一対一になり、神に喜ばれる神の子となって歩みたい。

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あなたもまた、神を知る
ヨハネ14:1-14

英語でグッバイは、神があなたとともにいてくださるようにという意味です。それはあなたの中に神が住んでいるのだから、安心して行きなさいという祝福の言葉です。イエスは「心を騒がせるな」と言われました。僕らは心を騒がせることの多い世界に生きていますが、イエスがこの命令を出しておられるのだから、たとえ自分では不安を取り除けない状態にあっても、イエスはそれを取り除いてくださる。だからクリスチャンは大胆になれるのです。 イエスは良い牧者であり、私達はその羊です。また「わたしの羊はわたしの声を知っている」と言われました。だから僕たちは、「わたしが道だ」のイエスの声を聞き分けることができるのです。でも世にはもう一つの「我こそ道なり」の声があり、それは悪魔の発する声です。この声は大きいし、これに立ち向かうのに通り一遍の神学や小手先の業は通用しません。 僕らは毎週講壇から語られる主の御声を聞いており、そのことによって、僕らの霊の耳が鍛えられ、世にある2つの声の内のどちらが主の声で、またどちらがそのまねをしているだけの、実際は虚飾であり永遠の滅びに向かう声であるかを聞き分けることができる様になるのです。問題のない職場はありません。事の大小にかかわらず、イエスご自身の「わたしが道である」のことばをしっかりこころに留めたいと思います。

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アブラハムの2度目の失敗
創世記20:1-18

アブラハムはアビメレクに対し、サラのことを、自分の妻なのに妹だと偽って「進呈する」という失態を演じます。これは以前犯したのと同じ失敗でした。なぜこんなことになったのか。それは恐れによるものでした。アビメレクは決して変な奴ではなかったのに、アブラハムは勝手な妄想を描いて、ありもしない恐れを自分で作り出したのです。 逆にアビメレクは全能の神、それも自分の幸せを考えてくださり、自分を信頼してくださる神との出会いを通して人格的に変えられ、アブラハムに対しても紳士的にふるまいます。それに対してアブラハムには、信仰の父としての立派さはみじんもない。でもこの「罪びと」アブラハムが、アビメレクの家のために祈るわけです。するとその祈りは聞かれ、アビメレクの家の女性たちの胎は開かれるのです。 罪を犯した相手のことでも祈れるのがクリスチャン。それは、僕たちを通して世界を祝福するのが神のご計画だからです。ダメな僕らを見ても、神はあきらめておられないということ。十字架にかかる前、主はペテロに「立ち直ったら兄弟たちを力づけよ」と、罪の赦しを差し出されました。僕らは自分にがっかりすることだらけです。でも神はその失敗も織り込み済みで、その後の、他者を執り成す者としての務めに、僕らを任じておられるのです。

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あなたも神への道を知る
ヨハネ14:1-14

イエスは「父の家には住む所がたくさんある。しかしまだ用意ができていない。それが用意できたらあなたがたを呼びに来る」と言われました。あるのに用意がされていないとはどういうことなのでしょう。これは父の身元に至るには、イエスの十字架の死と復活という行き来が必要だということです。イエスという「道」が用意されていないと、僕たちだけではそこにたどり着けないのです。 「主よ、どこにおいでになるんですか?」とペテロは叫びました。が、それをもう問わなくていい時が来たのです。それはよみがえりのイエスが三たびペテロに「わたしを愛するか」と問い、「わたしの羊と飼いなさい」と言われた時でした。自分の十字架を示され、弟子としてそれを負うと決めた時、それまで経験したことのない安息と、今まさに神の役に立っているという確かな喜びを知るのです。 イエスは「わたしを信じるなら、さらに大きなわざを行う」とも言われました。それは自分たちの罪が、祈りを通して癒され赦され続ける時、その傷口を通してキリストの愛が流れ出て人を癒し続けるということ。あんな事さえなければと思うような傷が、僕らの人生の中で神の奇跡を起こしていくのです。そのために必要なのは祈りです。祈りがなければ何も起こらないし、祈りのあるところには僕らの想像を超えたミステリーが用意されているのです。

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しかりのみの主イエス
Ⅱコリント1:19-20

事情が変われば言うことも変わるのが僕たちです。が、主イエスはあるがままに受け入れてくださる方。神の創造に失敗作はありません。僕らにとっては×(ぺけ)を付けることの多い自分ですが、神にとってはすべてが〇(まる)。だから僕らに対する神のこの「しかり」を僕たちが受け取り、握って離さない時、そこに新しい世界が始まるのです。 「愛はすべてを耐え、すべてを信じ、全てを望み、すべてを忍ぶ」とは、愛ゆえに信じて望んで耐える時、そこに不思議が生じるということ。99%は見えない世界であり、十字架は自由意思。負っても負わなくてもいいものです。でもその十字架をあえて負い、障害のある子を「障害を持って生まれて来た我が子」として肯定して受け入れ、愛し続けるなら、その愛の決断は家族を本当の家族に成長させてくれるのです。 「この人に神の業があらわるため」とは、これまで歩んできた道を主がよしとされるなら、この人はこの後どんな生き方もできる様になり、そこに神の業が現れるということ。「この方には『しかり』だけがある」とは、神がすでに受け入れているのだから、あなたも自分のことをそのまま愛せよということ。ペテロが岩の人生を歩み、ザアカイがその名の通り正しい人になった如く、すべてを肯定するイエスに出会うとき、僕らは自分の人生を自分らしく歩めるようになるのです。

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大きな恐れ・大きな喜び
ルカ2:8-14

クリスマスには大きな恐れがありました。それは天使の光が羊飼いたちを明るく照らしたことから始まります。僕たちは罪ある者、それゆえに神の光に照らし出されることを嫌うのです。僕たちの人生には恐れが満ちています。でも天使は、恐れなくていいと言います。それは、この主の到来は、さばきの到来ではないからです。 クリスマスは大きな喜び到来でした。お生まれになった救い主は、私達のための救い主だったからです。メシアの到来を長い間待ち望んだイスラエルの民に与えられたプレゼントは、神ご自身という最高のプレゼントだったのです。そして、全人類の救い主がお生まれになったその出来事は、実に静かな出来事でした。本当のよろこびは静かなのです。 主は33年の生涯の中で、全てのぎりぎりを経験されました。だから今ぎりぎりのところにある僕らの辛さを知っておられるのです。クリスマスの喜びは、このイエスをわが救い主としてお迎えした喜びです。コロナ、体調不良、ハイパーインフレ、戦争、あらゆる競争の激化と、世には恐れが満ちています。が、イエス我が涙を知り給う。このイエスの胸に飛び込めるという幸いに感謝しましょう。

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最初のキリスト礼拝
マタイ2:1-12

人類の歴史はBCとADで分かれていますが、ADはラテン語の「主の年」の短縮形。教会の存在は、主が来られた証しです。主は「わたしにはあなたがたの知らない食物がある」と言われました。神のために働く者には、イエスと同じ「食物」、神の助けが与えられるのです。 ヘロデ王は、権力欲と猜疑心の塊でしたが、その取り巻き、エルサレムの人たちも「王と同じだった」と聖書は言います。ヘロデが失う事を恐れたように、彼らも自分の今持っている地位、特権、お金を失う事を恐れたのです。さて僕らの心の中にこのヘロデ王はいないでしょうか。 メシアと出会って、今持っているものを手放して、新しい旅、危険な旅に出るか、それともこれまでの自分に留まるか。これを鋭く問いかけて来るのがクリスマスです。自己中心のままでは、キリストを礼拝し、真の交わりに生きることはできないのです。 あなたは最終的に何を求めていますか。主は再びこの世に来られます。僕らは今、主の再臨を待ち望む待降節、アドベントに生きています。あなたもこのクリスマス、持っているものを手放してメシアと出会う旅に出ませんか。「主よ、来たりませ」と再臨の主を待ち望みつつ。